いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか(内藤朝雄)を読んだ感想・書評
たとえば、ほんの数分前まで「仲良く」じゃれあっていた「友だち」が、みんなから「浮いた」としよう。すると次の瞬間、「仲良く」していたはずの生徒は、当人にも何が何だかわけがわからず意地悪な気持ちになり、みんなといっしょに「友だち」をバンバン蹴る。このとき、共同体のなかでパブロフの犬のように身体化した「われわれの善き慣習」が、関係の第一次性として生きられている。このとき蹴っている者の現実感覚の半分はこすっからい保身であり、あとの半分は、わたしが蹴るというよりも、わたしのなかから関係が蹴る、あるいはわたしの中からノリが蹴るとでもいったものだ。
彼らの築く群生秩序には何らかの基準があり、その基準を超えたものには罰が待っている。罰を与えるときには彼らの倫理が後押ししており、自分が強い意志を持って蹴っているというよりは、イマココのノリのようなものが彼らをそうさせているのだ。もちろん全てのいじめ加害者にこのことが当てはまるわけではないだろうが、わたしの中でもやもやしていた理由なきいじめの理解には一役買ってくれた。
さて、ではこの基準が何なのかが気になってくる。本書ではこれを「筋書」と呼んでいた。いじめの中心にいる人物は全能感の獲得を目論んでいる。この全能感を獲得するための筋書を「全能筋書」とする。加害者は、被害者にこの全能筋書通りの行動を強要することで、他社をコントロールする喜びを得て、さらには全能感を獲得するのだ。このような筋書に真っ白なものはないし、そのような筋書があったとして、そこから全能感を獲得することはないだろうというのが著者の主張だ。なるほど確かにそうかもしれない。私が耳にしたいじめは、被害者の納得できない行動に腹を立てた加害者の暴行によって悪化するものが多かったからだ(といってもニュースで知ったいじめばかりだが)。つまり被害者は加害者の組み立てた筋書に見合うような素振りを見せなければならないのだ。その素振りに失敗したとき、秩序を破った人間と見なされることになる。もちろんこれは上記のように加害者と被害者の関係悪化だけでなく、仲良しだった人間関係からいじめが発生するきっかけにも適用できるものだ。
このような筋書の中で耐え忍んでいる被害者は体験加工をしていると著者は主張する。自分はタフでいじめに負けずに堪えることができるんだという全能感を得て、自分は強いと信じこむのだ。毅然とした振る舞いを見せいていた被害者が、突如崩壊したならば、そこには体験加工の支えであったものが、何らかのきっかけで失われたと考えることができるかもしれない。もちろんいじめは突発的で継続性がある危険なものだ。一時的に耐え忍んでいた被害者の心のストレス許容量を越えた傷を負えば、その瞬間に立ち上がれなくなるかもしれない。体験加工という理論的な枠組みで耐えることを考えると、その理論が何だか腑に落ちない奇妙な感覚として残ってしまった。が、立ち上がれなくなったり、自殺してしまったりするよりは、他者から見るとよくわからない理屈であっても、とにかく自分の強さを信じられるような体験加工をして生き残ってほしいなと私は思った。
さて、冒頭で加害者は筋書通りに被害者を動かすことで全能感を獲得しているという著者の主張について紹介したが、これに群生秩序を組み合わせて考えたい。全能筋書には次の三つが挙げられる。①Xすることの全能、②Xすることを通じて集まることYの全能、③<祝祭>が物理的空間を覆い尽くすことZの全能。難しい言葉を使っているが、いじめを行い、それを理由に仲間が集まって、彼らだけの空間で筋書達成を祝うことによる全能感の獲得を示している。逆に、この集団から離れると彼らは途端に弱くなる。彼らの保っていた秩序は、その集団を離れると強さを持たないからだ。これはいじめだけではなく、いかなる集団にも適用できる普遍的な考えではないだろうか。客観的な視点で集団を見る人は特に②と③を毛嫌いするかもしれない。しかし、これは社会人としてチームを構成するのであれば有用なものだと思う。だからこそ、自分たちが何かを阻害するためにこの心理を使っていないか自己反省が必要になると思う。結局のところいじめは学生に限ったものではないし、人は何らかの集団に加わって生きていく生き物なのだ。誰かを苦しめるために集まるのではなく、助け合うために集団になりたいと強く願う。
日の名残り(カズオイシグロ)を読んだ感想・書評
わたしを離さないで(カズオ・イシグロ)を読んだ感想・書評
- 作者: カズオ・イシグロ,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/08/22
- メディア: 文庫
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手戻りなしの要件定義 実践マニュアル(水田哲郎)を読んだ感想・書評
ヒアリングは単に自分の聞きたいことを直接的に言葉にして尋ねればいいものではない。自分が欲している回答を得るためにどうすればいいのか工夫して質問することが大切なのだ。最後に会議をクロージングするときにはこうやって得た見解をお互いが正しく認識しているか確認しよう。思考の整理にもなってよいだろう。
最後に本書購入の目的であった既存システム改善の5つのステップを簡単にまとめたい。
①要望の受付——フォーマットに要望を書かせる——これはどのようなシステムでも取り入れているのでは? 開発候補一覧のようなかたちで私は取り入れている。開発の目的や背景が簡単に整理されていたり、優先度がわかりやすかったりするとその後が楽になるだろう。
②要望の目的をつかむ——。改善内容について書くのはもちろんのこと、その機能改善によって解決される課題や期待される効果をまとめよう。一体何をするための開発項目なのかを理解しないと改悪してしまう可能性だったあるからだ。また実施条件も確認しておくことで手戻りが発生しないようにしよう。本書ではそのためのフォーマットも用意していた。
③代替案や充足案を検討——。代替案は、依頼された改善要望よりも費用対効果の高い施策が他にないか検討するものである。開発側としては受注することが全てなのかもしれないが、ユーザ部としては利益になることが全てである。そのための提案をすることを躊躇ってはいけない。もちろん他の方法での機能改善があるのであればそれを提案しよう。そして、充足案とは要望の効果や実現性を高めるために依頼された要望と同時に実施すべき施策のことである。これらを与えられた実施条件の中で実現できるかを確認するのだ。
④実施可否や優先順位を判断——。最初の段階で簡単な優先順位づけができていると楽なのはこのためだ。限られた資金の中で開発を行うのでいくつかの案の中から費用対効果の高いと判断されたものを開発しなければならない。そのために「重要性」「緊急性」「実現性」「コスト」の四つの観点で点数化するのがよいだろう。
⑤修正する成果物で後続工程を決める——。ここからは後続工程への引継ぎだ。必要なドキュメント修正をもとに開発を行おう。
これらはとても基礎的なことなのだが、一方で忘れがちになってしまうことでもある。標準化された要件定義の方法をもとに自分たちのアレンジを加えながら効率的な要件定義が実現できるように健闘したい。
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神・時間術(樺沢紫苑)を読んだ感想・書評
「有酸素運動」をすることで、BDNF(脳由来神経栄養因子)という脳を育てる物質が分泌され、意欲を高めるドーパミンという脳内物質も分泌されます。結果として、集中力が高まるだけではなく、記憶力、思考力、作業遂行力など脳の多くの機能がアップするのです。
意外なのは運動といういかにも疲れそうなことが集中力の回復に役立つという事実だ。もちろん無理のないように取り組むものなのだろうが、そのギャップに驚かされた。もちろん食事や短時間の午睡も集中力の回復には役立つだろう。自分に合ったものを取り入れていきたい。
次にそもそもの集中を継続させる方法について記述したい。本書では四つにわけて説明されていた。①物による雑念。ビジネスマンは、物を探すのに年間150時間も使っているらしい。また、物を探す際に途切れた集中力を回復させるのに15分もの時間を要する。なので、物的なものだけでなくPCのファイル構成も一目でわかるように工夫させよう。②思考による雑念。ツァイガルニク効果という考え方がある。これは、人の記憶に関する傾向を表したもので、中断した出来事のように未達成の出来事ほど人の記憶に残りやすいというものだ。なので、やるべきことはタスクリストに書き出すことで、忘却を防ぐことが必要だし、完了した出来事もどこかに書き出して整理しておくと、いつか必要なときに思い出すことが可能になるだろう。③人による雑念。これは以前に(ワン・シング 一点集中がもたらす驚きの効果)という書籍をレビューした際に記述した。人の声かけによる意識の中断が集中力に与える効果のことを指している。④通信による雑念。これは③と類似しているだろう。今だとスマホを自分の意識の外に持ち出すことが必要なのかもしれない。
他にも数々の実践術が記されていたが、私には重複する内容だったので、割愛している。何にしても大切な考え方は本ブログの中に記しているはずだ。私はこの記事を読み返すことで仕事をより効率的に進めるようにしたい。働き方改革が進められている日本では特に重要な考え方になってくるはずだ。
○読後のおすすめ
路傍(東山彰良)を読んだ感想・書評
人生というやつは、いたるところに残酷な罠が張りめぐらされている。その罠から逃れるために、もっとこっぴどい罠にハマってしまうことなんかしょっちゅうだ。どんなタフなやつでも、もう一歩も歩けないときが必ずくる。そんなときには、背負っているものをもう一度よく見て みるといい。そろそろすててもかまわないものが、きっとひとつやふたつは見つかる。運がよければ、手を差しのべてくれるやつがドンピシャのタイミングであらわれる。
が、これだけは憶えておいたほうがいい。その救いの光が生身の人間だろうが神だろうが、自分自身ですてる苦しみを引き受けなければ、足腰はどんどん弱くなる。気がついたときにはもう、てめえの足で歩くことすらおぼつかない。神が牙をむくのは、そこからだ。
○読後のおすすめ