2017-11-27 いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか(内藤朝雄)を読んだ感想・書評 教育 いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書) posted with ヨメレバ 内藤 朝雄 講談社 2009-03-19 Amazon Kindle 楽天ブックス 文科省の発表では平成28年度に認知されたいじめの件数は32万件にも上る。前年よりも9万件多い数値になっている。いじめの認知基準が以前より明確になったことや通信機器によるいじめツールの増加が影響している可能性は高いが、それにしても数多く、これだけの人が阻害されていると考えると心が痛む。発表によると、このうちの9割は解決済みの問題らしい。何をもって解決とするのかは判断に迷うところだが、結果に対して加害者に法的措置がとられることはほとんどないのではないか。私はここに違和感を抱いていた。なにも法的措置を加害者にとれ、と主張したいのではない。学校という閉鎖的な空間では加害者が法律のような、より大きな秩序を意識していないことに疑問があったのだ。本書ではそのことにも触れていて、学校には固有の秩序があるという。また、それぞれの生徒によって小さな群生秩序が築かれていて、市民の秩序や普遍的な秩序とは別のところで存在しているのだと理解できた(もちろんそれらの秩序同士がぶつかり合う場面もあるだろうが、結局は学校内で築かれた秩序が無くなるわけではない)。加害者たちは、今この瞬間のいじめに集中し、被害者たちの倫理を越えた自分たちのいじめ倫理をもって、被害者たちをいたぶるのだ。その秩序から出た瞬間にいじめの倫理は全く意味をなさなくなるだろう。しかし、その秩序の中で生きている間、その倫理は重みを持っている。 本書にこのような文章があった。 たとえば、ほんの数分前まで「仲良く」じゃれあっていた「友だち」が、みんなから「浮いた」としよう。すると次の瞬間、「仲良く」していたはずの生徒は、当人にも何が何だかわけがわからず意地悪な気持ちになり、みんなといっしょに「友だち」をバンバン蹴る。このとき、共同体のなかでパブロフの犬のように身体化した「われわれの善き慣習」が、関係の第一次性として生きられている。このとき蹴っている者の現実感覚の半分はこすっからい保身であり、あとの半分は、わたしが蹴るというよりも、わたしのなかから関係が蹴る、あるいはわたしの中からノリが蹴るとでもいったものだ。 彼らの築く群生秩序には何らかの基準があり、その基準を超えたものには罰が待っている。罰を与えるときには彼らの倫理が後押ししており、自分が強い意志を持って蹴っているというよりは、イマココのノリのようなものが彼らをそうさせているのだ。もちろん全てのいじめ加害者にこのことが当てはまるわけではないだろうが、わたしの中でもやもやしていた理由なきいじめの理解には一役買ってくれた。 さて、ではこの基準が何なのかが気になってくる。本書ではこれを「筋書」と呼んでいた。いじめの中心にいる人物は全能感の獲得を目論んでいる。この全能感を獲得するための筋書を「全能筋書」とする。加害者は、被害者にこの全能筋書通りの行動を強要することで、他社をコントロールする喜びを得て、さらには全能感を獲得するのだ。このような筋書に真っ白なものはないし、そのような筋書があったとして、そこから全能感を獲得することはないだろうというのが著者の主張だ。なるほど確かにそうかもしれない。私が耳にしたいじめは、被害者の納得できない行動に腹を立てた加害者の暴行によって悪化するものが多かったからだ(といってもニュースで知ったいじめばかりだが)。つまり被害者は加害者の組み立てた筋書に見合うような素振りを見せなければならないのだ。その素振りに失敗したとき、秩序を破った人間と見なされることになる。もちろんこれは上記のように加害者と被害者の関係悪化だけでなく、仲良しだった人間関係からいじめが発生するきっかけにも適用できるものだ。 このような筋書の中で耐え忍んでいる被害者は体験加工をしていると著者は主張する。自分はタフでいじめに負けずに堪えることができるんだという全能感を得て、自分は強いと信じこむのだ。毅然とした振る舞いを見せいていた被害者が、突如崩壊したならば、そこには体験加工の支えであったものが、何らかのきっかけで失われたと考えることができるかもしれない。もちろんいじめは突発的で継続性がある危険なものだ。一時的に耐え忍んでいた被害者の心のストレス許容量を越えた傷を負えば、その瞬間に立ち上がれなくなるかもしれない。体験加工という理論的な枠組みで耐えることを考えると、その理論が何だか腑に落ちない奇妙な感覚として残ってしまった。が、立ち上がれなくなったり、自殺してしまったりするよりは、他者から見るとよくわからない理屈であっても、とにかく自分の強さを信じられるような体験加工をして生き残ってほしいなと私は思った。 さて、冒頭で加害者は筋書通りに被害者を動かすことで全能感を獲得しているという著者の主張について紹介したが、これに群生秩序を組み合わせて考えたい。全能筋書には次の三つが挙げられる。①Xすることの全能、②Xすることを通じて集まることYの全能、③<祝祭>が物理的空間を覆い尽くすことZの全能。難しい言葉を使っているが、いじめを行い、それを理由に仲間が集まって、彼らだけの空間で筋書達成を祝うことによる全能感の獲得を示している。逆に、この集団から離れると彼らは途端に弱くなる。彼らの保っていた秩序は、その集団を離れると強さを持たないからだ。これはいじめだけではなく、いかなる集団にも適用できる普遍的な考えではないだろうか。客観的な視点で集団を見る人は特に②と③を毛嫌いするかもしれない。しかし、これは社会人としてチームを構成するのであれば有用なものだと思う。だからこそ、自分たちが何かを阻害するためにこの心理を使っていないか自己反省が必要になると思う。結局のところいじめは学生に限ったものではないし、人は何らかの集団に加わって生きていく生き物なのだ。誰かを苦しめるために集まるのではなく、助け合うために集団になりたいと強く願う。 いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書) posted with ヨメレバ 内藤 朝雄 講談社 2009-03-19 Amazon Kindle 楽天ブックス