※ネタバレありです。
エーリッヒ・フロム 紀伊國屋書店 1991-03-25
なぜ僕はこんな風に悩まなければならないのだろうか。かなり投げやりな疑問が僕を襲った。実際に僕は二か月近くそのことで悩んでいたし、そのせいで食事が十分に喉を通らないことも多々あった。いっそ全てが目の前から消えてしまえばいいと思ったが、消えてほしくないと思う気持ちがあるから手放すことに悩むのだと気づく。意味があるようでない堂々巡りを繰り返して出した結論は、結局また僕の心を傷つける。「じゃあ結局のところ恋愛ってなんだ? 僕は何に対して悩んでいるんだ」
そんなときに友人に紹介されたのが本書である。タイトル自体、僕が抱えていた疑問について考えさせてくれそうなニュアンスを含んでいると思った。なぜなら僕はこんな疑問を持っていたからだ。
「恋愛における二人の関係が悪くなったとき、僕たちはどこまで相手を責めて、どこまで自分を責めるべきなのだろうか」
つまり恋愛には「対象」と「行為」があって、僕たちはそれぞれにどれだけ許容と我慢、そして改善をすべきなのかと考えたのだ。本書はそんな僕に対して、こう告げる。
『愛するには技術が必要である』
やっぱりそうなんだと当たり前のことに気づかされた。でも、僕の周りではそのように恋愛を語る人はいない。せいぜい口説く技術について、お遊び程度に語るくらいである。じゃあ、なんでこんな当たり前のことに気づけなかったのか。資本主義の発展により、いつしか自由恋愛が当たり前になった。そうなると、今までは決められた相手を紹介されて愛することを学び深めていたのが、対象の選定に時間を割くようになり、愛するという行為がないがしろにされるようになってしまったのだ。
自由恋愛で頻繁に耳にするセリフが「私の理想は……」である。しかし、これが正確に機能することはほとんどない。なぜなら恋愛とは自分が手にしている選択肢の中から最良だと思える相手を選ぶことだからである。そして、互いが最良だと思うことができたときに結ばれるのである。なので、現代で人が最も力を入れて取り組むのは、最良の相手に出会うための努力なのである。
しかし、「対象」だけでなく、愛するという「行為」が関係性の構築に大事な要素であることは明白だと思う。事実、付き合ったばかりのカップルだけでなく、しっかりと愛を誓ったと考えられる夫婦だって相次いで離婚してしまっているのだから。
そもそも技術の習得には、知識・経験・関心が重要である。しかし本書によると、多くの人は愛に関心を持っているようでいて、それ以外の物が与えてくれるものにばかり関心を持っている。資本主義が生み出す物に気を取られて、愛への最大の関心がないから、そこをないがしろにしてしまっているというのだ。僕はこれに頷かざるをえなかった。だって僕の周りでは、相手の不満や付き合いたい相手と付き合えない愚痴を言う人間がいても、自分の愛し方に対して改善を図る重要性を口にする人間はいなかったからだ。みんな、ドラマのように愛は自然発生的に生まれるものだと信じて疑わないので、愛するということ自体への興味は薄いのだ。つまり「行為」ではなく「対象」に興味があるのだと思う。
こんな文章があった。
たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。誰もがこんな幻想を抱いている。——私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それはたんなる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、「自分の」意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人とちがうのだと思いたがるが、そうした欲求は、ごく些細なちがいで満たされる。……
僕の周りで言うと結局のところ出会いのドラマチック性や対象の些細な違いを誇示する部分で、このようなエゴが出ている機会は多いと思う(恋愛の会話自体が嫌いではないので悪しからず)。資本主義によって同じ機会や物が与えられることこそ平等なのだと思うようになった結果、こうした部分で差異を生もうとしているのだと本書には書かれていた。なるほどと思った。それと同時にとても悲しくなった。結局、他人とこうやって比較したところで、比較対象かつ自分が保有しているものは変わらないわけだし、そこに深まりが生まれなければ、比較できなくなったときや負けた時に虚無が生まれるだろうと思ったからだ。やはり、大事なのは愛する技術を学び、「対象」と「行為」の両面から愛を深めることである。
さて、愛とは能動的なもので、自ら踏み込んで与えるものである。能動的とは外的に何か影響を与えているということではない。なぜなら、外的に強い影響を与えている行為でも動機が受動的で、何かに駆り立てられているかもしれかいからだ。逆に瞑想している人は自分に耳を傾け内面的に高度な活動をしている。これはすごく能動的な活動だろう。このように自ら相手を愛することが大切だ。言葉にするとシンプルすぎて驚いてしまうが、これが意外に難しい。本書にも記されているが、性欲は他の欲求と結びつきやすい。性欲が何かに結びついて、それが愛の欲求だと勘違いしてしまうようなケースは、一見すると能動的に動いているようで受動的な行為に終始する。そうではなく、本当に相手のことを思いやって愛すること。そうやって心から相手を信頼し愛することができれば、その人は自分に本当の信頼と愛を返してくれる。これは恋愛に限らない「愛する行為」の技術だ。
しかし、自分から相手を愛することはかなり勇気がいる。なぜなら、相手から愛される保証がない状態で、こちらから愛する行為を見せることは恥ずかしいし、場合によっては失敗して傷つく可能性があるからだ。そんなことを思っているとこんな文章に出会った。
信念と勇気の修練は。日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
僕は、この文章に強く心を打たれた。正直、僕の疑問がすべて解消したわけではないし、これから努力することがいっぱいあるけれど、進むべき道を見つけることはできたと思っている。あとは実践だろう。
〇読後のおすすめ
bookyomukoto.hatenablog.com
恋愛における圧倒的な経験がしたいけれど数をこなす方法がわからないという方向け?
タイトルと中身でギャップがあったので驚いたが、このような恋愛観に触れてみるのもよいと思う。