思考の整理学(外山滋比古)を読んだ感想・書評
知的活動には三つの種類が考えられる。①既知のことを再認する。以下、これをAとする。②未知のことを理解する。これをBとする。③まったく新しい世界に挑戦する。これをCとする。……中略……物語、小説などは、一見して、読者に親しみやすい姿をしている。いかにもA読みでわかるような気がする。あまり難解であるという感じも与えない。それでは創作がA読みだけですべてがわかるか、というとそうではない。作者の考えているのは、読者の知らないものであることがうすうす察知される。このとき、読者は既知に助けられ、想像力によって、既知の延長線上に新しい世界をおぼろげにとらえる。こういうわけで、同じ表現が、Aで読まれるとともに、Bでも読まれることが可能になる。創作が独特のふくみを感じさせるのは、この二重読みと無関係ではあるまい。
われわれには二つの相反する能力が備わっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。
……中略……
思考に関して、この二つの作用を区別してかかるのは重要である。これまでは主として収斂的思考のことを考えていたから、思考の整理も比較的に簡単であったように思われる。しかし、収斂的思考は思考の半分にすぎない。しかも受動的半分である。創造的半分は拡散的思考、つまり、誤解をおそれず、タンジェントの方向に脱出しようとするエネルギーによって生み出されれる思考である。これまでこれが充分認識されないできたのが、われわれの社会の不幸であった。本当の独創、創造ということが、”変人”でないとできにくいというのは悲しい。
本を読むにしても、これまでは”正解”をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対とすることで、容易に正解をつくり上げられる。それに向かって行われるのが収斂的読書である。
それに比して、自分の解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと避難される。しかし、読みにおいて拡散的作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しないことはすでにのべたとおりである。
本ブログの目的は、「拡散的思考」に寄っている。もちろんそのためには自分が定着させたいと思う知識を一度収斂的読書でまとめる必要があると思うので、そのような文章も記述しないわけではない。しかし、それだけでは自分の血肉とならないことは本書でも述べられているとおりで、僕はそのことを忘れないように記事の更新を続けていきたいと思う。
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