※ネタバレ注意です
本書の文体やストーリーの構築方法は、カズオイシグロに近いものがあると感じた。それはほとんどのシーンで物語の重要人物による語りが用意されていることに起因する。カズオイシグロは、この語りという手法をとても大切にしている。理由は、語りが人の記憶のねつ造を如実に映し出していて、そこに人のエゴが表出するからである。本書を既に読んでいる人は、すごく納得できる主張ではないだろうか? 湊かなえが描き出す本書のキャラクターも同様のことを無意識に表出させているからだ。
さて、それではどのような部分で記憶がねつ造されているのだろうかと思うわけである。そもそも記憶には二つの要素があると僕は考えている。
①事象
②感情
このうち、①事象はあまりねつ造されない(もちろんされることもある)。なぜならこれ自体は、変えようがない事実であり、周りと話していて違和感が生じてしまうからだ。もし、ここをねつ造しようとする人がいるのだとすれば、かなり焦っているんだろうなと思う。
僕が思うにねつ造の頻度が多いのは②感情だ。結局、事象というインプットとアウトプットである自分の語りをうまく調和しようとすると、ロジック部分を司るところで大きな改変が生まれることになる。そして、感情部分は人目に残りにくい部分なので、ねつ造しやすい。そうやって自分の行動に理屈をつけることは、自分の行動を肯定することに繋がるので、落ち着く。すごく汚いやり口に思えるけれど、こういうことは日常的に多くの人の頭の中で発生している。
本書の面白いと思える部分は、読者にとって本当に気になる部分は完璧に明らかにならないまま話が終わっていくことである。これは湊かなえが嫌ミスの嬢王と呼ばれる所以だと思うが、これが非常に気持ちいい。周りの人が知っているアナタと知らないアナタ。自分が知っている自分と知らない自分。その連鎖の中で、どうやって物語を読むのか。何が真実だったと考えるのかを思うのが楽しいからだ。色んな語り手が登場してくるが、その中の誰が素直に事象を捉えているのだろうか……。そんなことを考えると物語は描かれていない部分で二転三転を繰り返す。
表題にもなっている二作は、まさにそれを体現した物語になっているだろう。そして、この二作は僕が今ずっと考えているテーマとリンクしている。娘も母親も、それぞれの理屈で相手に何かを求めている。その一方、他者否定による自己肯定の側面も伺える。そんなとき僕は、相手にどれだけのことを求めていいのか、わからなくなってしまう。考えに考え抜いて最後に出る結論は大抵同じで、相手のことを信頼するけれど人は裏切ることをどこかで意識しておくしかない、というものだ。なんだか無性に寂しくなる答えだ。でも、だからこそずっと自分を信頼してくれている人に、僕は何かを返すことができるのだと思っている。
〇読後のおすすめ
語りによる記憶のねつ造を如実に体験できる小説。一方で、普通に読んでいるとそこまで違和感を感じないことも本書が傑作として語られる一つの理由なのだろう。