「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないってことよ。わかる? そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
『不自然なかたちで自分を擦り減らす』という意味合いの言葉が非常に刺さる。このときのワタナベは、特に大した言葉も言わずに肯くだけでしかない。しかし時間が経ってこの意味合いを考えさせられる描写は次々と訪れる。その一つが無意識の直子が夜眠るワタナベのもとを訪れて突然裸になる描写だ。そのときワタナベは、直子にたいして、彼女は完璧な肉体を手に入れたという考えを持った。それは、不自然なかたちで自分を擦り減らしてきた直子が、自分の大切なものを取り戻したことをワタナベに見せつけているようだったことに由来する。心と体はなぜか分離して考えられることが多い。しかし、それらは一体なのだ。どちらかがほころびを見せれば、なし崩し的に崩壊する可能性だってあるのだ。ワタナベはそのことに気付いた。新宿という街を歩いているときに、周囲の人間と自分との間にあるギャップのようなものを身をもって感じた。俯瞰的にそのようなものを見てしまうことは、その人にとって本当に苦しい痛みをもたらすときがある。当たり前なんだけども彼らは自分とは違う時間軸の中で生きているということを忘れてしまって、意味もわからないイライラが募ってしまう。それは崩壊の一手だ。
結果的に直子は自殺という行為を選ぶ。そこにワタナベの行動がどのような影響を与えているのかは不明だ。彼が直子にどのような影響を与えていたのかすらイマイチ分からない。本書は過去の回想という表現技法を使っていて、物語は直子の自殺から随分と時間が経った時点から始まっている。そこに描かれていることですら殆どは、直子がおそらくこう思っていたのだろうという推測に過ぎない。死人に口なしと言うが結局は、自分で考えて考えて必死になってそれを乗り越える・落ち着くように考え直すしかないだろうと思った。ただしその考えに対して、直子の死後すぐのワタナベはこう語っている。
「死は生の対極にあるのではなく、我々のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒やすことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことは できないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。
じゃあ一体全体どうすればいいのだろうか、と思った。僕はこれに対する答えを知らない。だから必死に生きて必死に考え抜いてやろうと思う。たぶん自分の身近な人間が死んだときにその力はあまり役に立たない。それはワタナベが言うとおりなのだろう。でも、僕の身近な人間がそのような苦しみを抱えているときに、その力は役に立つと思うのだ。だから僕は精一杯考える。
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