この小説では限られた命を持つ若者が登場する。彼らは革命的技術によって生産されたクローン人間で、臓器提供のためだけに生まれ生きている。しかし、彼らにも私たち同様の生きていくうえでの葛藤があり、それが深く心に刺さった。
物語の後半で彼らが生まれ育ったヘールシャムの秘密について明される。これによって、彼らが、クローン人間にしては特別な高等教育を受けていたことが明かされる。しかしそれは、私たちからすればあまりにも当然の教育で、それゆえにそのことが秘密であると明かされるまで、その教育スタンスに疑念を抱くことは全くなかった。こうやって特別な身体と環境を持つ彼らと、私たちの教育環境を比べてみると、初めて見えてくる事がある。自分たちが普通だと思っていることも、少し視点を変えるだけで、普通から乖離していくことにも気づくことができる。著者のカズオ・イシグロは「物語の舞台は動かせる」と主張する。同様に私たちの視点も動かすことができるのだ。そして、小説はこれを容易にし、視点を動かしてもなお変わらない共通観念を教えてくれるから重宝されるのだと思った。
さてこのようにして舞台を現代のリアルな日本に移したとき、似たような教育差別が残っていることを否定できない。もちろん発展途上国のような、そもそも場所が用意されていない環境はほとんど無いと思う。しかし、教育水準はその教育機関に従事する指導者や環境に左右されることが多く、生徒は知らずしらずの間に自分を決定づけられている。例えばルーシー先生の一言でトミーが生まれ変わったように、担任の一言で進路や生き方が決定されることは多々あるだろう。もしかしすると舞台は学校に留まらないかもしれない。偶然立ち寄った飲食店のオーナーの考え方が、その生徒に大きな影響を与えるかもしれない。結局のところヘールシャムはひとつのメタファーで、私たちの世界には誰かの生き方を決定づける場所や瞬間が溢れているのだ。私たちは、そのどちらの立場になるかわからない存在なのだと自覚しなければならない。
このような考え方を持つと基礎的な教育を行う機関のあり方がわからなくなってくる。自分の担当する教科について学び、資格をとり、職業として生徒にその教科を教える先生。他方では、部活などの指導を通じて生徒の生き方に強く関与しようとする生徒がいる。どちらも欠かせない観点なのだが、なぜか分離させて考えている人が多いような気がする。また、塾のような補助的な学習機関のあり方はどうだろうか。勉強が苦手な人に対しても、学校の学習では物足りない生徒に対しても、お金を払って学習させることをどう考えるべきなのだろうか。これではお金がある家庭の循環が生じるばかりで、生まれた環境ひとつで人生の選択肢があまりにも変わってくる。本書でも生まれた環境によって生き方が決定されていた生徒が描かれていたが、そこに通ずるものがあると私は考えている。
これからのことを書こうと思う。本書では、クローン人間によって病気を治療する方法が見つかった際に倫理的な問題について検討されなかったことが背景として描かれている。現代ではこのことについて議論がなされているので、カズオ・イシグロの創り出した世界が実現される可能性は低いといえるかもしれない。しかし、同様の懸念が別の業界にある。AIのあり方だ。ディープラーニングの流行により、人工知能の実現可能性が大幅に高まった。実際に自動運転などの夢のような技術が近い将来世界で運用される。しかし、このAI技術が戦争に利用されることが懸念されている。まだ動き出している人は少ないが、著名人だとイーロンマスクの名が挙がっている。彼らはAIが戦争に利用され世界を荒廃させることを法制度で防ぐことを求めている。確かに法制度で予め防がないと人の手を介さない非人道的な戦争が各地で発生するかもしれない。私たちは目の前の機械に没頭しながら、その裏で多くの人のを殺戮するのだ。そして、その主役は国ではなく、その裏でAIの技術を持つ企業になるかもそれない。ひとつの技術がブレークスルーに達する瞬間、私たちは世界を変える選択を求められているのだと知覚しなければならないのかもしれない。
最後に本書ではヘールシャムの設立と運営を通してクローン人間にも心があることを証明しようとした人間たちが描かれている。これに対して細かな指摘をするつもりはない。ただ本書を読むだけでそれについてひとつの解が得られるはずだ。自分の恋愛を上手く語ることができない女の独白を通して。

- 作者: カズオ・イシグロ,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2008/08/22
- メディア: 文庫
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