この二人に共通していることは、とても場当たり的に生きているということではないだろうか。大きな目的を持っているわけはなく、肉体労働に従事して得た金で酒とドラッグに溺れる。ときに手持ちがなくなれば、お金を誰かから奪う方法を考えたり、友人の家電をリサイクルショップに売ったりする。一体なにをしたいのだろうか。そんな風に何度も思ったのだが、彼ら自身にもそれはわからないのかもしれないと思った。
通常若い人間は未来志向的に生きる。長い人生の中で自分がしたいと思うことを頭に浮かべては形にして、また欲求が生じればそれを形にして……と欲求と承認の循環の輪に終わりがあるなんて日常生活からは気づけない。しかし、中年と呼ばれるようになると思考が変わる。平均寿命や定年退職の年齢から自分の年齢を差し引いて自分に残された時間としたいことの整理を迫られる。もしかしたら、そこには自分の思ったような時間はなくて落とし穴にはまったような感覚に陥るかもしれない。そんなこと知ってたらもっと有効な生き方をしてましたよ、と。あまりうまく表現できた気はしないけれど、あの二人はこのどちらにも属さないような気がした。確かにお酒やドラッグ、女を求めて驚くような動きを見せるが、それは上記の欲求と承認の輪からは外れたものだったような気がする。生きるための暇つぶしみたいにしか思えなかった。もちろん先を見据えているわけでもない。人間が体で覚えた本能的な欲求にのみ従っている感じがした。
こんな人間像を提示すれば本書を読んでいない人間は、アンダーグラウンドで生きる煤けた人間を想像するのかもしれない。しかし、文章を読み進めているとあまり汚いイメージは生まれてこない。わたしにはこれが意外だった。おそらく主人公の語りが時折知的さを帯びるからだろうと推察している。この知的さが物語に新しい視点を加えている。とんでもない出来事があまりにも起きすぎているし、そこには何の救いもないように思えるのに、猛烈に心を揺さぶられるのだ。これは主人公の姿と乖離している語りなので、小説として嘘っぽさを生み出してしまう可能性もあった。でも、わたしにはそれが成功しているように思えた。
彼らがハチャメチャな人生で得た教訓は是非小説の中から読み取ってほしい。ただ、ひとつだけ気にいった文章を引用して本投稿を締めたいと思う。
人生というやつは、いたるところに残酷な罠が張りめぐらされている。その罠から逃れるために、もっとこっぴどい罠にハマってしまうことなんかしょっちゅうだ。どんなタフなやつでも、もう一歩も歩けないときが必ずくる。そんなときには、背負っているものをもう一度よく見て みるといい。そろそろすててもかまわないものが、きっとひとつやふたつは見つかる。運がよければ、手を差しのべてくれるやつがドンピシャのタイミングであらわれる。
が、これだけは憶えておいたほうがいい。その救いの光が生身の人間だろうが神だろうが、自分自身ですてる苦しみを引き受けなければ、足腰はどんどん弱くなる。気がついたときにはもう、てめえの足で歩くことすらおぼつかない。神が牙をむくのは、そこからだ。
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