海辺のカフカ(村上春樹)を読んだ感想・書評
以前に海辺のカフカを読んだとき、僕は大学一年生だった。当時の僕は音楽にドハマリしていて、以前は熱心に読んでいた「本」というものをすっかり忘れていたのだが、なんとなく読み返した夏目漱石の小説でかつての熱を取り戻し、大学生協で偶然見つけた本書を手に取ったのだ。僕はすぐに海辺のカフカの奇妙な魅力に夢中になった。田村カフカの十五歳とは思えないような思考レベル。ナカタさんと星野さんが巻き込まれ・巻き起こす出来事の数々。それらがどのような結末を辿るのかと、僕は常にハラハラした気持ちで読んでいた。今でもこのときの感覚や周囲の情景を簡単に思いだ出すことができるのだから不思議なものだ。
数年ぶりに本書を読んでみて思った感想は「意味がわからない」だ。これは以前に読んだときと何も感想としては変わらない。一方で、拾い上げることができた登場人物の心理描写がかなり増えたような気がしている。「始まりの石」や「高知の森」に関して、当時の僕はさっぱり意味がわからなかったのだが、今はなんとなく分かるようなことがいくつか出てきた。しかし、僕にはこれを言語化することができない。僕の表現力の乏しさや理解の不足が原因だとは思うが、これを安易に言語化することができてしまうのもいかがなものなのだろうか。物語とは本来、いくつもの出来事や要素が絡み合って出来上がるものだ。それを部分的に切り取って「これはこうだね」と平坦に述べてしまうことに何の味気があるというのだろうか。村上春樹の本に関しては特にだけど、いかにも専門家のような語りの人がたくさんいる(僕もたまにブログでやってると思います。すみません)。結局は文章以上のものを創り出すのは読み手の経験や心理状態なのだから、そこは読み手の意志に任せて気ままに読めばいいと思う。もちろんそこで誰かの意見が欲しい、となったときには上述したような意見がとても貴重になるかもしれない。まずは深い意味合いなど考えずに読むことにチャレンジしていただきたい。
ここで最後に僕が感じたことを一つだけ書いておくと、本書に登場する人物たちは、多くの物事を素直に受け入れているように思える。何かを拒絶しているようでいて、それに対する実際的な拒絶の行動をあまり取っていない。田村カフカが最初に家出という行動をとったことを除いたらほとんどのことは何かの意志が大きな流れをつくっているようで、それにいくつもの登場人物たちが知ってか知らずか乗っているような感覚がする。これまたこれ以上に言語化することが僕にはできないので、非常に悔しい思いをすると同時に、いつかこれを語ることができればと思う。あとは、ナカタさんのように真摯に生きたいなと思った。彼から多くのことを学んだのは星野青年だけではないはずだ。
○読後のおすすめ
既に読了している方に向けて書いた記事である。
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(中略)……提案とはそもそも、こちらが頑張って通さなければ、通らないのがふつうなのだ。決して提案が通ることが当たり前だと考えてはいけない。なぜなら、通るのが当たり前だと考えてしまうと、提案が通らない場合にそれを「相手のせい」や」「環境のせい」にしてしまうからだ。
最もな意見である。確かに環境が悪いことが原因で提案が通らない・否定されることはあるだろう。僕もそのような経験がある。なんだかよくわからない相手側の理屈一つで正しい意見が捻じ曲げられていくような経験だ。まるで納得がいかないし、相手を恨んで悪口のひとつだって言いたくなるかもしれない。しかし、その時点で僕のPDCAは途絶えてしまっていたのだ。これでは劣悪な環境で自分をシンデレラのように扱う痛い男から何も変わることができない。本書にも記述があるが、提案は自分次第で、相手の目線や要望、スタイルによって見方が大きく変わることも考慮に入れなければならない。それを考えることが自分の成長にも繋がるのだ。
本書によると提案した際の相手の反応は二種類しかないらしい。①本当にそうなの? ②それだけなの? 以上の二種類だ。本書では、これを①縦の論理と②横の論理の不足が原因の反応と捉えて改善策を考えている。この考え方はとてもいいかもしれない。相手のコメントを聴きつつ不足していたポイントを考慮することができるようになるからだ。それでは以降でそれぞれについてもう少し詳しく紹介したい。
①本当にそうなの? これは縦の論理関係=因果関係が弱い説明で起こってしまう。この縦の論理関係が繋がらない四つ理由として以下のものが挙げられている。
1.前提条件の違い。相手の目線に立つことで相手がどんな役職で要望は何なのかを考慮する必要がある。人が持っているその提案に対する情報量が理解の度合いに影響を与えている。縦の論理は提案背景が弱くなるので、この前提条件の理解の違いは意識しておく必要があるだろう。
2.異質なものの同質化。これは全く違う話を同一のテーマとして扱っている可能性がある。例えば大きな一つの業界で区切っているが実際はもっと区分できるものであるとか。縦に並べたもののサイズ感に差異がないか確認することも必要かもしれない。
3.偶然の必然化。偶然の出来事をさも当たり前に起こる出来事として捉えているようなことだ。これを防ぐためには一度否定的な目線で自分の提案内容を精査する必要があるかもしれない。
4.詳細を話すことができない。縦の論理を中心に提案していると、詳細を削って話すことが多くなるのだろう。だからといって細部を蔑ろにしていいわけではない。相手にとってもそれが大事な場合がある。だからそれを記憶し、いつでも相手に説明できる状態にあることはとても大事なことなのだ。
この四つの原因をカバーすることが伝わりやすい縦の論理関係を伴うプレゼンには必要になるのだ。
②それだけなの? これは横の論理関係=全体の捉え方がおかしかったり、漏れ・ダブリがあったりすることが原因になりやすい。そこで予想される原因は二つある。
1.話者と聞き手で視点が異なっている。これは縦の論理関係が繋がらない理由のひとつと似た原因である。例えば「経営者」と「従業員」では「給与」に対する考え方が違うかもしれない。それぞれの立場でものを考えないといけない。
2.切り口(想定場面)が異なっている。何かの施策に対する話をしていたとして、それの適応場面を話者と聞き手で異なって想定しているかもしれない。提案の目的や全体的な視点について想定しているものを共有することが大切になる。
このように話のレベル感を合わせて初めて横の論理を考えるフェーズに入る。そのときになってフレームワーク等を使ってMECEで考えられているかを確認するのだ。多くのフレームワークはいきなりそれを使うと何かを解決できる便利グッズのような扱いを受けているが、これでは相手との意識に差が生じる可能性があることを学ぶことができる。またP91のMECEマトリクスによるダブリチェックもおもしろそうだ。
次に提案内容に大きく関与する仮説検証について考える。仮説では、相手の疑問を知り、次にその質問に答える(示唆を与える)ことが必要である。僕はこの「相手の疑問を知り」が非常に大切だと感じた。総じて質問を投げかけられた人は、相手の言葉を受けて思ったことをとりあえず答えることが多いからだ。それで会話がチグハグになる光景を僕は何度も見てきた。そして仮説検証のための5つのステップに移ると本書では提唱されている。「仮説思考 BCG流 問題発見・解決の発想法」よりもステップが多いのは、相手の目的や論点を確認する行為をステップに入れているからだ。それが、①目的の理解、②論点の把握、③仮説の構築、④検証の実施、⑤示唆の抽出、以上の五つである。以下で詳しく考える。
①目的を理解する。ここには二つの注意点が存在する。1.議論のスタンスを理解する。意思判断を求めている場合と単に話を聞いて欲しいだけの二通りのスタンスが存在しているので、これを把握する。意思判断を求めるような押し切り型の提案(コミュニケーション)では、具体的な話で締めくくる必要がある。2.相手の要望を理解する。これは相手の話を聞き、背景を理解するというとてもアナログな行為である。もし時間や機会がある場合は、提案までに相手がどんなことを考えているのか知る機会を持つべきだろう。
②論点について、本書にこのような記述がある。
「論点」とはつまり、「相手が意思判断を行う際に検討する項目のなかで、まだ確固たる答えを持っていないがために、検討を行えば意思判断の結果にちがいを生じる可能性のある項目」であり、要約すると「相手の意思判断に影響をおよぼす判断項目」なのである。
これを見れば論点について考える際に相手の要望が必要であることがわかる。また、本書ではP129に論点を外さないため(話し合いがうまくいっていないとき)のチェックリストがあるので、それを見てみるのもいいかもしれないと思った。また論点はいくつか存在する可能性があるだろうが、それを絞る必要もあるだろう。僕はこのことを学んでいる。
これら6つの嘘に対する懸念を自分の中で払拭することができれば、次は自分への問いかけが必要だ。自分の掲げる目的に沿った、たった一つこれに絞れば他もすべて解決するようなもの。そう自分に問いかけることが必要だ。優れた問いは、優れた答えを生み出す。成功者は答えを出す作業以上に問いの構築に時間をかけるのだ。
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ここで挙げられている自分への問いのレベルを上げる必要もあるということだ。そのために僕は「論点思考(内田和成)」という本を読んで論点設定について考えた。
③仮説の構築。これについては「仮説思考(内田和成)」を読んだ際の知識が生かせるのでそれをもとに考えればよいだろう。
④検証の実施。ここで仮説の証明には「正しい論理」と「動かぬ証拠」が必要だとされている。「正しい論理」とは、「論理として正しい=数学で言えば、式が正しい」もので、縦横のつながりについての正確性を考える部分だ。「動かぬ証拠」とは、「事実として正しい=数学で言えば、なかに入れる数字が正しい」もので、通常は以下三つのファクトがどれか一つ以上必要になる。それが、1.定量情報、2.一次情報、3.第三者視点(客観的視点) である。ここは定番だけど実はしっかりと実践できていない話だろうか。ネットから適当にグラフとか引っ張り出してきてるけどそれが正しいかとか、そのさらに原典を調べようかというのは案外怠りがち。
⑤示唆の抽出。示唆とは論点を絞り込むために役立つ情報であり、答えの次点である。答えを提示できれば万々歳だけれども答えのある問題なんて世の中ではほとんどないし、上述したように全ての答えらしきものに取り組めるほど時間的猶予もない。まず前提として完璧なファクトというのは存在しない。また、一つ二つの分析で答えを断定することもできない。しかし、提案をしている以上、話し合いを前に進める何らかの意見が必要になる。それが「示唆」だ。以下で示唆について述べられている一文を引用したい。
ビジネスの世界では、論点に「答える」必要はない。仮説を言われた通りに検証する必要もない。論点を絞り込み、方向性を提示する「示唆」が書ければ、それで事足りるのだ。
そして良い示唆を提示するためのポイントが三つ挙げられていた。
①目的と論点をきちんと理解する。
②論点の絞り込みに集中する。論点と目的を理解した上でさらにその論点を分解し、どこに対してファクトを示せばより相手の心に響くのかを考える必要がある。
③検証不能な作業設計をしない。存在しない・細かすぎるデータの使用を必要とする示唆を出そうとしないこと。
このようにここまで提案のための思考について本書で学んだことをまとめてきたが、実際にはそれを提案する場所が必要となる。それが会議だ。本書では会議で提案を通すための方法にも言及なされている。まず改めて考えなければならないなと思ったのは、「議題」と「論点」が違うということである。好き勝手に議題について話していても大事な示唆は生まれない。「議題」から論点を生み出すための自問自答(イシューを生み出す)ことが示唆を生み、タスクレベルへの落とし込みを可能にするのだ。また、提案時に気をつけておきたいのが、その会議は全体の提案の中でどの位置づけにあるのかということだ。それを意識・確認しておかないと相手との間に意識の溝が生じるかもしれない。その時々で相手に合わせた論理展開を見せないと最終的なゴールに結びつかないかもしれない。
そして会議では「着地点」と「着地スタイル」の設計が重要になる。
①着地点について。会議では「位置づけ」をはっきりさせた上で、「イン・アウトプットの明確なイメージ」が必要になる。位置づけについては、すでに上述した部分もある(「議題」と「論点」など)が、ここで三つの視点を改めて挙げておきたい。1.仮説検証思考の視点。2.コミュニケーションの視点。3.問題解決の視点。以上の三つである。おおよその会議と呼ばれるものは、「問題解決」に焦点を当てられているだろう。問題が生まれていないというのは、ある意味では前進していないということを示唆しているし、それを解決するために開くのが会議であるはずだからだ。
②着地スタイルについて。これは相手側のスタイルを理解し、それに合わせることが必要になる。そして、そのスタイルの理解のポイントが三つ挙げられていた。1.読む人か聞く人か。これによってプレゼンか資料どちらに力を入れるかが変わってくる。2.全体観派(横の理論)か芋蔓派(縦の理論)か。横の理論を好む場合は、全体の中で今どこの話をしているのかが重要になるかもしれない。縦の理論を好む人には結論に向かって一直線に進むような意見が必要かつ、相手の理念や信条にフィットするような提案が必要になる。3.トップダウンかボトムアップか。これも横と縦の理論に関する話しだが、どちらかといえば資料の作り方やプレゼンのトーク順に影響を与える考え方だ。相手の好みや背景に合わせて考えよう。例えば、事情に精通している人にはトップダウンで説明するほうが時短に繋がるかもしれない。
このように会議設計に関する部分の教えもあった。かなりチームとしての意識付けが必要になるものだった。何かしら自分主導で会議を設計するときにはこれを確認してから会議に臨むようにしたい。ちなみに資料の作成に関するテクニックも本書には記述されているのだが、それはプレゼンの際に確認用として本書自体を見返すようにしようと思うので、ここには何も記述しない。しかし、これ以外でも学べるところがかなり多くてオススメの一冊である。自分の中で納得いっていなかったロジカルシンキングに対する疑問も解決された(例えば横と縦の論理の話。社内研修だと大体どっちかに偏っている)。ストーリー仕立てでかなり読みやすい本でもあるので、ぜひ読んでみていただきたい。
○読後のおすすめ
すでに読了した方に向けて書いた記事である。
仮説思考(内田和成)を読んだ感想・書評
すでに論点思考を読了している方に向けて書いた記事である。
「仮説思考」でも取り上げられているゼロベース思考について考えることができる一冊を読んださいの記事。
0ベース思考を読んだ感想・書評
ぼくたちの考えは、いわゆる経済学的アプローチにヒントを得ている。といってもバリバリの経済をとりあげるわけじゃない――全然ない。
経済学的アプローチっていうのは、もっと幅広くシンプルな考え方だ。直感や主義主張は脇にどけて、データをもとに世の中のしくみを理解し、どんなインセンティブがうまく行くのか行かないのか、また(食料やら交通手段やらの)具体的な資源や、(教育やら愛情やらの)観念的な資源がどう配分されるのか、資源が手に入りにくい原因にはどんなものがあるかを明らかにしようとする方法をいう。
※インセンティブ=人を行動に駆り立てる動機や要因
要は社会通念を信じてばかりで、データを何も参照しなかったり、そういう結果が出ていても無視して痛い目を見ている人に対する警告のような本となっている。
最初に本書では「分からないことを分かる」と答えてしまう人たちについて言及している。例えば専門家が「未来の予測を立てれますか?」と問われたときにペラペラと自説を説いている人間だ。全ての人が外れているとは言わないけれど、ほとんどの意見がそのまま流されていくのを頻繁に見ているような気がする。当たったら取り上げられるのに、外しても対して責められないことが多いのはなぜなのだろうか? そもそもなぜ「分かる」と断言するのか、僕には以前から理解できなかった。もちろんある程度社会で生きているとあれが生きていくための術であることはわかっていた。それが複数あるインセンティブの一つなのだろうと。本書ではこのような嘘を簡単についてしまう人についてこう記されている。
テトロックは、予測がとくに外れがちな人はどういう人かを聞かれると、ズバリひと言で答えた。「独断的」、つまり何かが本当かどうかを知らないのに、何が何でも本当だと思い込むような人だ。
僕もちょっとした見栄で「できる」とか「わかる」と答えてしまうときがある。「ハッタリ」としてそういうのが必要になる場面もあるのだろうが、毎回毎回そうやって嘘をついて信頼をなくしてしまったらハッタリも使うことができなくなってしまうだろう。本書ではこのような見栄についてこう締めくくっている。
しかし、ものごとがあたりまえと思われるようになるのは「あと」になってから、つまり誰かが時間と労力をかけてそれを調べ、その正しさ(や誤り)を証明してからだ。知らないはずの答えを知っているかのようにふるまうのをやめなければ、調べたいという強い思いもわいてこない。知ったかぶりをしたいというインセンティブはとても強いから、それに打ち勝つには勇気をふりしぼる必要がある。
確かにそのとおりだ。まるで事実のように未来を語るのはやめなければいけないなと思った。しかしこれは、「未来を語ってはいけない」ということではなく「断定と推測を使い分ける」というレベルで修正できることだと僕は考えている。もちろん本質的には誤魔化しをやめようという著者のメッセージが込められていると思ったので、そこはもちろん意識したい。
上述したようなちょっとした見栄で分からないことを分かると答えてしまうような人間の心理には「群集心理」が働いていることが多そうだ。自尊心を満たして、社会的立場を守るためにちょっとした嘘をつく。こういうのって積み重なると本当に痛い目を見ることが多い。最近再読したノルウェイの森では、嘘を巧みに操る少女が出てきた。彼女がどうなっていくのかという描写はないが、自分の中でいずれ大きな葛藤が生まれて生き辛さを覚えるのではないかと思う。仕事でもそういう小さな誤魔化しが後々の大きなミスに繋がることがあるかもしれない(そもそも本人が小さな誤魔化しと考えていても周囲の人はそう思っていないかもしれない)。
これまで自分主観でインセンティブについて記述した箇所が多かったが、これは相手が何を思っているのかを捉えるのにも役立つかもしれない。相手の考えは事実や論理よりもイデオロギーや群集心理に左右されることが多い。身をもって実感なさっている方も多いのかもしれない。だから何らかの課題がある際には、相手のインセンティブを考えながら解決のための自問自答をすることが先決で、その後自分が取る行動(ビジネスだと営業や広報だろうか)に具体的に置き換えていくことが大事だ。本書にはそれを考える際の簡単な六つのルールが挙げられている。
1.相手が関心があると言っていることを鵜呑みにせず、本当に関心を持っていることをつきとめよう。
2.相手にとっては価値があるけれど、自分には安く提供できるような面で、インセンティブを提供しよう。
3.相手の反応に注意を払おう。びっくりしたり、がっかりしたような反応が返ってきたら、それを参考にして別のことを試してみよう。
4.相手との関係を、敵対的枠組みから協調的枠組みにシフトさせるようなインセンティブをできるかぎり考えよう。
5.何かが「正しい」から相手がそれをしてくれるだなんて、ゆめゆめ思っちゃいけない。
6.どんなことをしてでもシステムを悪用しようとする人が、必ず現れる。考えもしなかった方法で出し抜かれることもある。そんなときはカッとして相手の強欲を呪ったりせず、、創意工夫に拍手を送ろう。
これらを満たす問いを考えて誰にも思いつかないような方法で問題を解決していった先人のお話が本書ではいくつか挙げられていた。その人達はインセンティブをうまく活用して問題を解決するのだ。要はシンプルに考えることが大切ということなのだが、この言葉はあまりにも巷に溢れているし、それを別の切り口でこれだけ考える事ができたのは面白かった。(特にヴァン・ヘイレンのツアーの裏に隠された秘密の話は最高だった)
○読後のおすすめ
すでに読了している方に向けて書いた記事だ。
入社1年目の教科書(岩瀬大輔)を読んだ感想・書評
ノルウェイの森(村上春樹)を読んだ感想・書評
「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないってことよ。わかる? そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
『不自然なかたちで自分を擦り減らす』という意味合いの言葉が非常に刺さる。このときのワタナベは、特に大した言葉も言わずに肯くだけでしかない。しかし時間が経ってこの意味合いを考えさせられる描写は次々と訪れる。その一つが無意識の直子が夜眠るワタナベのもとを訪れて突然裸になる描写だ。そのときワタナベは、直子にたいして、彼女は完璧な肉体を手に入れたという考えを持った。それは、不自然なかたちで自分を擦り減らしてきた直子が、自分の大切なものを取り戻したことをワタナベに見せつけているようだったことに由来する。心と体はなぜか分離して考えられることが多い。しかし、それらは一体なのだ。どちらかがほころびを見せれば、なし崩し的に崩壊する可能性だってあるのだ。ワタナベはそのことに気付いた。新宿という街を歩いているときに、周囲の人間と自分との間にあるギャップのようなものを身をもって感じた。俯瞰的にそのようなものを見てしまうことは、その人にとって本当に苦しい痛みをもたらすときがある。当たり前なんだけども彼らは自分とは違う時間軸の中で生きているということを忘れてしまって、意味もわからないイライラが募ってしまう。それは崩壊の一手だ。
結果的に直子は自殺という行為を選ぶ。そこにワタナベの行動がどのような影響を与えているのかは不明だ。彼が直子にどのような影響を与えていたのかすらイマイチ分からない。本書は過去の回想という表現技法を使っていて、物語は直子の自殺から随分と時間が経った時点から始まっている。そこに描かれていることですら殆どは、直子がおそらくこう思っていたのだろうという推測に過ぎない。死人に口なしと言うが結局は、自分で考えて考えて必死になってそれを乗り越える・落ち着くように考え直すしかないだろうと思った。ただしその考えに対して、直子の死後すぐのワタナベはこう語っている。
「死は生の対極にあるのではなく、我々のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒やすことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことは できないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。
じゃあ一体全体どうすればいいのだろうか、と思った。僕はこれに対する答えを知らない。だから必死に生きて必死に考え抜いてやろうと思う。たぶん自分の身近な人間が死んだときにその力はあまり役に立たない。それはワタナベが言うとおりなのだろう。でも、僕の身近な人間がそのような苦しみを抱えているときに、その力は役に立つと思うのだ。だから僕は精一杯考える。
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思考の整理学(外山滋比古)を読んだ感想・書評
知的活動には三つの種類が考えられる。①既知のことを再認する。以下、これをAとする。②未知のことを理解する。これをBとする。③まったく新しい世界に挑戦する。これをCとする。……中略……物語、小説などは、一見して、読者に親しみやすい姿をしている。いかにもA読みでわかるような気がする。あまり難解であるという感じも与えない。それでは創作がA読みだけですべてがわかるか、というとそうではない。作者の考えているのは、読者の知らないものであることがうすうす察知される。このとき、読者は既知に助けられ、想像力によって、既知の延長線上に新しい世界をおぼろげにとらえる。こういうわけで、同じ表現が、Aで読まれるとともに、Bでも読まれることが可能になる。創作が独特のふくみを感じさせるのは、この二重読みと無関係ではあるまい。
われわれには二つの相反する能力が備わっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。
……中略……
思考に関して、この二つの作用を区別してかかるのは重要である。これまでは主として収斂的思考のことを考えていたから、思考の整理も比較的に簡単であったように思われる。しかし、収斂的思考は思考の半分にすぎない。しかも受動的半分である。創造的半分は拡散的思考、つまり、誤解をおそれず、タンジェントの方向に脱出しようとするエネルギーによって生み出されれる思考である。これまでこれが充分認識されないできたのが、われわれの社会の不幸であった。本当の独創、創造ということが、”変人”でないとできにくいというのは悲しい。
本を読むにしても、これまでは”正解”をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対とすることで、容易に正解をつくり上げられる。それに向かって行われるのが収斂的読書である。
それに比して、自分の解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと避難される。しかし、読みにおいて拡散的作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しないことはすでにのべたとおりである。
本ブログの目的は、「拡散的思考」に寄っている。もちろんそのためには自分が定着させたいと思う知識を一度収斂的読書でまとめる必要があると思うので、そのような文章も記述しないわけではない。しかし、それだけでは自分の血肉とならないことは本書でも述べられているとおりで、僕はそのことを忘れないように記事の更新を続けていきたいと思う。
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