※ネタバレ注意
幼稚園から乳児を抱える五人の母親に関する物語で、最初はそれぞれに支え合っていたのに、小学校受験を意識することで、関係性に亀裂が生まれていくお話。これは実際に発生した事件を参考に書かれているようで、著者の熱量が前面に出ている作品だと思った。
何よりも本書で語られるのが、ラスト数十ページだろう。唐突に出てくる吐き気をもよおすような重厚な文章。それまでも人の汚い心の機微を描いていたものの、取りつかれたように動く母親の中に、読者が入り込むような文章は初めてで、読んでいて驚きを隠せなかった。そこから一気に読み進めていたのだが、物語は意外にもあっけなく終わる。あのシーンは何だったのだろうか? そんな疑問が抑えられなかった。
これはあくまでも僕の考えでしかないが、あのシーンは「誰だってあのような状況になりえること」を示すためのシーンだったのではないだろうか。シンプルに考えれば、もっとも精神的に追い詰められているのは容子に思える。ストーカーまがいのことまでしているのだから当然だろう。でも、そんな僕の予想を覆すように、容子が普通の生活を送っていることが最後にわかる。最後に書いたのは、やはり僕のように考える人がいるからに違いないだろう。しかし、そうではない。単純な言動だけで外側から判断することはできないのだと思う。
彼女たちが生み出す狂気にも似た衝動的行動は、どれも些細な欲求の充足や不安の解消から始まっている。このような物語に触れると決まって「こういう世界もあるんだね」と口にする人がいるが、そのような人こそ気をつけた方がいいと思う。このように簡単に想像できてしまうことは、簡単に実現されるし、この世界の延長線上に存在している風景なのだ。潜在的な自分の意識を安心させるために、そんなことは自分の周りではないと考えるよりは、自分がそういうことをしていないのかを内省してみる機会を持つ方が建設的な気がする。
この小説の中で最もインパクトを与える存在は、やはり容子だろう。上記の狂気を支えるキャラクターでもある。彼女は、自分が信じた瞳のことを束縛しようとする。この行動を僕は正直否定できない。自分が好きになった人が何をしているのか気になってしまうのは、程度こそあれ多くの人が抱く心理だと思う。ただ、あれを表に出しすぎてしまうとコミュニケーションは大きく破綻してしまう。相手は自分(容子)の言動に恐怖心を抱くようになるからだ。しかし、容子の欲求は強まるばかりなので大きな摩擦が生まれてしまう。
なぜこのような状態になってしまうのか。詳しいことを僕は知らないが、大きな要因は、基本的に人はコントロールしたい生き物だからなのだと思う。コントロールできないと焦りが生まれるし、上記のような摩擦にもつながってくる。でも、全ての事象を人間がコントロールすることは不可能だろう。それではどうするか。僕は現在、四つの考えを持っている。
①諦める
②無理矢理コントロールする
③コントロールしていると思い込む
④同様の相手を他にも持つ
①は最も難しい。容子のような段階までいってしまうと、そこに発想がいっても心がついていかなくて、かなり苦しい時間を長時間過ごすことになるだろう。②は、容子がとった行動だ。相手や事象にもよるが、相当な覚悟が必要になる。それでも覚悟を無視して行動する人が多いのは、盲目になってしまい、リスクの部分が無意識的に忘れさられているからだろう。③は、仕事でよく使う手法だと思っている。スケジュールをタスクレベルで管理したり、期日を設けたりするのは可能な限りそこに動きを近づけることで、この通りに進むから安心と思いこむ一つの手法だろう。④は恋愛工学などで語られるもので、相手を複数持てば、一つを失ったところで心の傷が少なくて済むというものだ。容子の場合は、閉鎖的な空間にいたので、それが難しかったのだろうと思う。
このように考えると自分たちの行動は意識的に操ることが可能なのだと思うことができる。時折、自分の行動を振り返ってみて内省する機会を設けるのはとても大事なことだろうと思った。