本書もぶっとんだお話がいくつかある。中でも作家Nシリーズは、読書メーターの感想を拝見していても好評みたいなので、まだ読んでいない人には、ぜひおすすめしたい。もちろん作家のNとは、中村文則のことを指していて、好きなように書いている様が笑える。隙間に挟まった男とのやり取りは、ちょっと会話で使えそうだなと思ったりもした。
さて、前回は犯罪を犯すラインについて考えさせられたのだが、本書では人の過去や心の傷について、考えさせられた。僕は、学生時代から何度も心の傷について考えてきた。理論的に納得できたのは、人の許容量を上回る出来事が訪れたとき、それは心に傷を残すというものだ。確かにその通りだと思う。人にとっては些末な出来事でも、当事者にとっては大きな出来事であれば、その人にとっての傷になりえる。噂話が好きな人は悪意のドミノで好きなように、その人を囃し立てるかもしれない。小さな出来事で心に傷を負うような方であれば、自分に関する噂話は更なる傷を生み出すかもしれない。そして、それを止めることに労力を割かれるが、一人立ちしてしまった噂話を止める方法なんて、ほとんど存在しない。そうなると結局なにがあってその人は傷ついているのか。これがおざなりになるケースもあると思う。
この問題に対して明確な答えを僕は持っていない。ただし、自分なりに二つの対策を持つように心掛けている。一つ目は、自分の感じた痛みを可能な限り正確に知覚すること。これは僕自身の性格特性に対する考え方が色濃く反映されている。過去の僕は強がる人間だった。自分を良く見せようとか、負けず嫌いで完璧主義な性格が反映されていたのだと思う。僕はそのような性格を悪いものだとは思っていない。弱い自分を着飾ることは、この世界で生きていくためにはとても重要なことだし、負けず嫌いな性格は成長するために欠かせない動力源だと思っている。しかし、それが痛みの知覚段階で影響してはいけないと考えるようになった。過去の僕は、辛いことがあっても、それを「いや、大したことない」と強がっていた。一方で心の奥底では小さな傷が蓄積されていた。そして、それらはいつか鬱憤を晴らすように爆発するのである。人はそうやって成長すべきだろうか? いや、一つひとつの痛みと真摯に向き合うべきだと僕は思う。何をどう感じたのか、だから次に僕はどうすべきなのか。しっかりと考え抜かないと惰性で生きてしまう。本当の痛みを理解できない人間になってしまう。だから僕は、正確に自分が感じた痛みを知覚しようと思った。
二つ目は、正直に話せる友達を持つことである。一つ目の対策は正直苦しい。自分の理想とかけ離れたことを知覚しなけらばならないからだ。その内容を正直に話せすことはむしろ苦しみを生み出すかもしれない。しかし、時間が経ったときに頼れる見方として、その友人が傍にいることは限りない財産になるはずだ。苦しいことを苦しいと言える存在が自分の近くにいるのだと。
そうやって痛みを知覚できればいろんな物事が俯瞰で見られるようになると思う。そうすると自分が最初に知覚していた痛みは、実はもっと大きな原因があったことに気づいたりもする。僕も過去に苦しいことがあって、それをしっかり受け止めようとした結果、色んな物事が一気に見えるようになった。
中村文則もきっと色んなことをしっかり受け止める人間なのだと思う。あれだけ様々な罪を作品に反映させてきたのだ、かなり苦しい作業だったと思う。一方で、そのようにして陰の部分を描き続けたからこそ、光について描くときは、そのきらめきが一層映える。本書にも東日本大震災の後に書かれた作品が二つある。どちらも生きることを目一杯肯定してくれているように思う。こんな風にひたむきに人と向き合いたい。