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本を読むこと-読書から何かを学ぶためのブログ-

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64(ロクヨン)横山秀夫を読んだ感想[書評]

小説

 これは現実に起こっている出来事なのではないだろうか。

 本書は読了した僕にそのような実感をもたらした。だが、これはあくまでも小説であり、物語である。横山秀夫がそれだけキャラクター像を創りあげるのが上手いのだと脱帽した。

 横山秀夫が記者時代から一貫して人を見つめ続けてきた成果なんだと思う。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 

  本書は佐藤浩市主演で既に映画化が決まっている。まだ映像化されていない現時点で思うのは、「佐藤浩市ってかっこよすぎないか?」ということだ。

 おそらく本書をまだ読んでいない状態で、本ブログを覗いてくれている方には全く理解できない問いだろうが、一度でも本書を読み進めていた人からすれば、それは本書の根幹にも関わってくる、あまりにも大きな問いになるのだ。

 本書は三上という男が主人公で、物語は容姿端麗の妻ととある遺体を目にすることから始まる。遺体は全く知らない女の子のもので三上はそれに安堵する。なぜなら娘の遺体かもしれないと知らされてそこに馳せ参じていたからだ。しかし家を飛び出した娘、あゆみではなかった――。

 あゆみは容姿端麗の妻ではなく、三上に顔が似ていたことをひどく恨んでいた。三上は強面の人相で、物語中では「鬼瓦」とも呼ばれている。そんな三上に似てしまったことを何かに取り憑かれたように恨み、憤ったあゆみはついに家を飛び出し、消息不明となる。警察官として働く三上は全国の警察官にあゆみの顔写真を公開し、捜索を要請する。そしてそれは警務部にあゆみを人質としてとられたようなもので――。と、ここから話は大きく進展していくわけで、佐藤浩市のようなあまりにも素敵な男性が三上を演じた場合にどうやって話が進むのかが全く想像できない。それは楽しみな要素であり、不安な要素でもある。

 人の顔の問題とは如何なるものか。僕は昔、自分の顔が嫌いだった。とてもとても。しかし時間が経つとそのような考えは失せた。そんなに自分の顔を嫌悪する必要がなくなった。人並みに彼女から愛されたとと、それ以上に自分の内面を嫌うようになったからだと思う。これはこれで問題なのだろうけど、とにかく自分の顔を嫌うことはなくなった。

 

 冒頭でも述べたように本書はキャラ立ちがとてもいい。三上家の顔立ちの遺伝に関する話もそうだが、タイトルにもなっているロクヨン事件の被害者雨宮。記者や刑事部、警務部の人間と、膨大な数の人が出てくるのにそれぞれに顔がしっかりとある。読んでいて迷うことが少ない(登場回数が少ない人はちょっと考えた)。だから主人公の三上に限らず、それぞれの視点で物語を視ることができる。そして不安に思ったり、ほろりと泣けたりできる。

 今まであまり描かれてこなかった広報官という職を、刑事部や東京とのジレンマを混じえながら、これだけの大作に仕上げた横山秀夫の手腕には驚くばかりだ。

 

 少し話を戻す。今の若者の顔に対するこだわりは熱の帯方が異常なときがある。だが、顔立ちのいい人があまりにも目立ちすぎる世の中であるだけで、それ以外の人が全て差別を受けるわけではない。愛される要素は他にもたくさんあるからだ。

「いや、そんなことはない!」そう思った人ほど顔に対するこだわりがあるのかもしれない。しかし顔で得する分をキャラで賄うことは可能だと思う。愛嬌や気遣いがしっかりと理解される社会が日本にはあると思うからだ。

 あゆみのように強迫症にかかって顔に対するこだわりを捨てきれない人もいるのかもしれない。日本は整形も曖昧な浸透をしていて、「できるけれど、やったら終わり」のような空気があることは否定出来ない。やはり内面を変えることが一番効果を得やすい気がするが、そんな簡単に変えることができるのならば誰も悩まない。環境を変える。一番遠くにあって、一番効果を得やすいここに行き当たって皆が諦めるのだろうか。

 本書で度々「窓」という表現がなされていた。人間にとっての窓は「顔」であり「心」である。どちらも「窓」になりえる。その二つをどう使うのか、どう向き合って表現していくのかが重要なのだろうか。

 

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 

 

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