『ゴールデンスランバー』社会はいつだって曖昧だ[レビュー]
『ゴールデンスランバー』伊坂幸太郎を読了したので、その感想を投稿したいと思います。
↑あらすじや商品紹介は上記から閲覧できます
※ネタバレを含む可能性があります
ゴールデンスランバーは映画化された作品で、一般ウケも大変よい作品に思えます。しかし、伊坂幸太郎は何かのインタビューで「ゴールデンスランバーは好きなように書いた」と述べていて、映画化されるぐらいに一般ウケしたのは、意外だったようですね。
私は伊坂幸太郎が大好きで、彼の考え方や世界観に共感を抱いてきた人間だからなのでしょうか、、、ゴールデンスランバーはストライクゾーンにズバッと突き刺さりました。長編でしたがあっという間に読み終えました。
本作は社会風刺的な要素を備えつつも、伊坂幸太郎的伏線の数々から進むストーリー展開は圧巻です。特にラストでの両親に向けたメッセージと、エレベーターでのワンシーンは、気づくと自身の頬を湿らせていました。
個人的には本作が、勧善懲悪のような要素を備えつつも、何もかもが全くキレイには終えることができなかった、という点に伊坂幸太郎の社会に対する印象のようなものが反映されていると感じました。
悪を懲らしめ、善を勧める。いわゆる正義は勝つ、という考えはヒーローもののドラマやアニメに幼少期から親しむ機会が多い日本人には、根強い価値観なのではないでしょうか。
本作では青柳雅春が周囲の協力を経て、警察から逃げ切ることに成功しています。
一方で、自身の本来の顔や親友など、数多くの大切な何かを失っています。また、事件は結局、解決されなかったのだということが文中で記されています。また、その事件の影響で亡くなった疑惑のある人や職を手放したとされる人物にについても記述されています。この記述は本編を盛り上げるためだけに存在しているようには思えませんでした。おそらく、社会の事件や事故は全てを明らかにされるなんてことはほとんどないし、有耶無耶にされることも多くある。そんなことを伊坂幸太郎は思い、小説に反映していたのではないでしょうか。私も分かります。ただ、それでも、青柳雅春のように諦めないで生きてほしい。そんな想いも込められているのではないでしょうか。
文中で、何か同じ想いを持っている人が、同じ空を見ているかもしれない、と考える描写があります。一方で、同じ空の下にいても、他人事のように進んでいく出来事は無数に存在していることも記されています。
私がこのブログを更新している間にも何らかの出来事が確実に、そして、有耶無耶にされていっています。自分にできることは、自分の周囲にあることに対して真摯に向き合うこと。そして、友人に対して真摯になること。なんだと思います。とにかく、目の前のことからはじめよう。
「せーの、青柳屋!」