リバース(湊かなえ)を読んだ感想・書評
ネガティブな思考が物語を支配している。本書を読んでいると、そんな感想が頭を過った。主人公の男は友達が少ない、そのうえ弱気で世界を客観的に見て批評を下すような傾向が見られる。彼のような特性をすべて備えた人間ばかりではないにしても、彼のような思いを瞬時でも抱いた経験のある人間は、少なからずいるだろう。このようなネガティブな思考が読む原動力になるのは、どこか悲しい気がする。結末が結末なだけに余計にそう思えるのかもしれない。
本書では、罪の意識も一つのテーマになっていると思う。浅見のように酒を断った人間と反省の色が見えない谷原。もちろん谷原のような行動に出るのは一般常識的にも問題で軽蔑されて当然だと思う。一方で浅見のように自己への戒めを怠らなかった人間は、どの段階で許されるのだろうと思った。むしろ許されることなんてないのかもしれない。一方で、事故・事件に関与してしまった人が、何かを失ったまま生きていくのも辛いよなと思うのだ。彼らは一生を欠落したまま過ごす可能性があるのだから。
こんなことを書いておきながら、自分の友人が被害にあった場合、私は、浅見たちを許さないだろうなと思う。いつまでどれくらいかなんて想像できないけど、とにかく許さないと思う。ただ、自分から彼らに対して復讐の行動をとることはできないのだろう。きっと、自分にとって明らかな異物を体に含んだような違和感を覚えながら自分の体と向き合い続けて、何かきっかけがあれば言葉だけがあふれ出て、ぎりぎりまで守った心は止める術もないままに崩壊してしまうのだ。誰が被害にあったわけでもないのに私はそんなことを考えてしまった。しかし、紛れもなくその可能性はあるのだ。
結局のところ私たちにできるのは、自分たちがそのような被害を生み出さないようにするための心構えと行動しかないのだと思う。可能性ある悲しい未来に慟哭の準備をしている時間はないのだ。ノスタルジックに生きていはいけない。この物語とは違うポジティブな思考が生み出す生活を実現させよう。
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乱反射(貫井徳郎)を読んだ感想・書評
乃木坂46の齋藤飛鳥がおすすめする小説という一点の理由で購入しました。今まで貫井作品を読んだことはなかったのですが、イメージとしては暗い作品が多くて、それが「アイドル」のイメージとかけ離れていたのですごく意外でした。彼女は本書を「吐き気がする」と笑い混じりに語っていましたが、実際に私も読んでみるとモヤモヤとした気持ちが生まれて、それをどうにか吐き出したいと感じてしまいました。
本書は、人のちょっとしたエゴが連鎖した先に幼児の死が待っているという暗いお話です。典型的な無駄口叩くおばちゃんや車の運転が苦手な女性、体が弱くて頻繁に風を引く男子大学、犬の糞を放置するおじさんと幅広い人物が連鎖の一端を担います。
これらすべての人物に同情することはできないけれど、すべての人物を非難するような気持にはなりません。例えば、前述した車の運転が苦手な女性は、車庫入れができずに車を放ってしまうことで、なんてことない道に渋滞を発生させて救急車の行く手を阻みます。車の運転が得意な人からすると全く理解できない行動かもしれませんが、全くできないことを同調圧力のようなかたちで求められて、それをすべて放り投げたくなってしまう気持ち、私には少しわかります。それゆえに読んでいて最ももどかしかった場面かもしれません。一方で新車を買うときに気持ちを高揚させて最後の最後で車庫入れしにくい車を受け入れたのも彼女なのです。私たちは一体どこまで注意して生活すれば良いのでしょうか。
本当に細かな所作まで気を配って生きていくのは難しいように思えますし、どれがどの人にとって不快な行動なのかもわかりません。もちろん結果的にその行動が人を殺めることになるなんて分かるはずがないのです。
本書を読んでこのような思いを抱いているうちに、ふと頭に過ったのが、もし世界に完璧なシステムがあればどうなるのだろうかということです。そのようなシステムがあれば、今回の人災による幼児の死亡事例は発生しないのでしょう。一方で私はどこか窮屈な世界を想像してしまいます。それはそんな窮屈さも感じさせないほどに完璧なシステムであるはずなのに、です。「システム化」という言葉にはどこかしら人を抑制するような響きが含まれているようです。でも、そのようなシステムがあるからこそ人は自由に動けるのだと考えてもいます……。
少し話が飛躍しすぎました。私は、この本を読んでそんなどうしようもない難しいことを考えてしまったわけですが、一方で今日から自分でもできることを見つけました。それは素直になることです。もちろんネガティブな要素で素直になりたくはありません(欲求のために人を傷つけるみたいな)。その時々の精一杯の努力をしたいと思いましたし、人を傷つけたときは素直に謝りたいと思ったのです。すべての周りの人が私を見ているとは限りません。しかし、私自身は、過去の私を見ています。未来の私に愛想を尽かされないためにも、今の自分としっかり向き合いたいと思います。
容疑者Xの献身(東野圭吾)を読んだ感想・書評
ガリレオとして有名な科学者の湯川学シリーズであり、映画化された一冊。僕も映画化された作品をテレビで見た記憶がある。堤真一演じる石神と福山雅治演じる湯川学の天才対決という様相が強かった。今更ここで原作を読む必要はあるのだろうかと悩んだが、直木賞受賞時の選評が高評価で気になっていたので読むことにした。
実際に読んでみて、本書は文句なしのエンタメ小説だと思った。読む手をとめることができなくて、何度も「ここまで!」と区切りを入れたのにちょっとした理由をつけて本書を手にとってしまう始末だった。
本書は犯人が誰だか分った状態で読む推理小説である。それ故に推理の攻防戦に主眼が置かれることになるが、それ以上に各登場人物の人間性が物語に上手く溶け込んでいるように思う。時折、事件を起こすために出てくる登場人物がいる推理小説を見かけることがあるが、本書ではそのような浮いた人物は出てこなかった。あくまでも彼らが存在していたからこのような事件の進展を見せたのだと納得させられたし、読んでいて違和感を感じなかった。これは推理小説において利点となるだろう。
本書のサブテーマに石神ならではの純愛の形が存在する。彼はその愛のために遺憾なく論理的思考力を存分に発揮する。普通に読んでいるだけだと警察の手が靖子らに伸びているように思えるのに実態は全く的外れの捜査をしていたわけだ。あれだけの計算ができる能力を持っていることを素直に羨ましいと思った。一方で、最後の最後にその計算を狂わせたのが靖子の心だ。最愛の人である靖子が一緒に罪を償いたいと言って自首する。その行動は石神には予想外だった。それを嬉しく思うのか、それとも嫌悪するのか。そこをどう読むかも面白いポイントだと思った。
○読後のおすすめ
怒り(吉田修一)を読んだ感想・書評
映画を鑑賞してから約半年が経ったころ、僕は原作である小説版の「怒り」を読むことにした。小説好きである職場の先輩に「小説の方が背景を深く知れて面白いから」と勧められたことがキッカケだ。しかし、僕はこれを素直に受け取れなかった。小説を卑下していたわけではない。映画があまりにも素晴らしすぎたからだ。言葉にできない感情で体が重くなる経験をしたのは初めてだったかもしれない。あまり気持ち良い内容ではなかったけれど間違いなく記憶に残る一作だった。
実際に小説を読んでみて、映画とは全く違うような見え方がして驚いた。当たり前だけど、映画はこの小説を元にして作ったもので、小説は映画を意識して作ったものではないだろう。それでもなお、その違いについてここで言及しておきたい。
映画には狂気のような瞬間が満ちていた。心理描写が読み取れないので、それぞれ物語を動かしている人物たちですら何を思っているのかがわからなかったし、犯人の山神はもっとだ。ホラー映画を見たような反射的な恐怖ではない。頭で感じ取り、身体の奥底から震えが生まれるような、そんな恐怖だ。
一方で小説にそこまでの恐怖は感じなかった。画面で見ることがないことも理由の一つかも知れないが、それ以上に自分が納得している一つの答えがある。それは、山神を含む各人物に共感できることである。もちろんなぜ犯罪をしたのかという明確な殺意やその原因について理解できるという意味ではない。ただ、何となくこの世界で生きているうちにひしひしと感じる怒りを彼に投影することで理解しているだけなのかもしれない。そんな感情が溢れてくると、僕は無性に顔を歪めたくなる。読むことをやめたくないけど、どこかで感情を噴出させたくなるような描写に出会うと僕はそんな表情をしてしまうことがあるらしい。
そして、そのような表情をしてしまうような瞬間がこの世界には溢れている。特に都会には多いような気がする。満員電車のように個人がパーソナルスペースを失う場面にそのような瞬間は訪れやすいのかもしれない。明確な言葉で伝えられないのが残念だけど、きっとそこには余裕がないんだと思う。精神的にも、物理的にも。
この小説には「信頼」というテーマが与えられている(もしかしたらマーケティングの観点なのかもしれないけど)。僕は、それ以上に今回語ったような怒りへの共感の側面が響いた。それが著者の狙いなのかはわからないけど、何かを得ることができる小説だと保証することはできるだろう。
○読後のおすすめ
吉田修一のヒット作。今回のブログに投稿した内容は、きっとこの小説を読むことで育まれた考えが、影響している。皆さんも気になるのであれば読んでみてほしい。
すでに読了している方に向けて書いた記事である。
スタンフォード式 最高の睡眠(西野精治)を読んだ感想・書評
私は、睡眠時間によって一日の働きの質が大きく変わると自負している。これは、学生時代からずっと変わらなくて、睡眠時間を削って遊んだり、勉強したりする機会が多かったので、大変困った記憶がある。社会人になってからは、睡眠不足による質の低下が顕著で、物事の判断が鈍くなったり、集中力の低下を避けるためにできる限り良い状態で仕事をしたいと考えていた。
結論から言ってしまうと本書は実践することを意識した睡眠に関する本としておすすめできる一冊である。中でも私が特に気になった部分だけ抜粋していきたい。
まず睡眠に関して学んでいると必ず出てくる単語が「睡眠負債」である。最近は、テレビでもこのワードを耳にすることが多いかもしれない。寝だめすることはできないけれど、睡眠不足を解消するために眠ることはできると言われている。これは、睡眠の負債を解消する行為で、解消するものを睡眠負債と呼ぶ。
この睡眠負債が溜まっていると様々な障害が発生する可能性があるのだが、中でも私が気になっているのが、「マイクロスリープ」と呼ばれるものだ。これは、瞬間的な寝落ちのようなものを指している。意図的にマイクロスリープをとる人もいるそうだが、無意識にこうなってしまうのは当然良くない。自覚しにくい症状もあるらしく生活への影響は大きい。完全に寝落ちまでいかなくても気が付けば意識が遠くなっているようなことはある。これも含めて避けることができるようにしなければならないと思った。
本書では何度も眠りについて最初の90分間を最高の時間にすることが提唱されている。この時間の質を高めると起きたときの満足度が高くなるそうだ。なるほど、十分な睡眠時間を取得しているのに起きたときに睡眠不足を感じるような状態はここから来ているのかもしれない。これを避けるために行動する必要がありそうだ。
まず最初に入浴のタイミングについて。入眠時間の90分前に入浴すると良いそうだ。それは眠気が、身体の熱放出にともなって増すからだそうで、入浴がその手助けをしてくれるのだ。これを習慣づけることができれば、睡眠の導入は上手くいく可能性が高くなる。だから、何らかの理由で入浴できないときもシャワーや足湯などで可能な限り条件を整えてあげるように心掛けたい。
入浴の邪魔になるものの一つに飲酒があるだろう。社会的な繋がりを保つための行為でもあるので、睡眠効率を良くするために全ての飲み会を断る、なんてことはできないと思う。たぶん私も無理だ。しかし、お酒が睡眠に与える影響は大きい。利尿作用を強くして脱水気味に身体を陥れたり、ノンレム睡眠の邪魔をしたりする。また、呼吸抑制の作用も報告されているようで、睡眠時に呼吸の問題を抱えている人には、由々しき問題になるだろう。だから過度なお酒は控えたほうがいい。しかし、適度な量であれば眠気の増長などに役立ったりもするそうなので、そこはお酒との付き合い方を個々人で考える必要があるだろう。
睡眠を阻害するものとして頻繁に取り上げられているのがスマホやパソコンだ。ブルーライトが影響を与えていることは知られているが、その理由までは知られていない。本書によると眠りを推進するメラトニンというホルモンの分泌を抑制する力がブルーライトにはあるそうだ。それによって睡眠が阻害されているらしい。しかし、著者によるとそれ以上に、スマホを使って様々なことを考えることによって脳が冴えてしまうことをもっと問題視すべきらしい。そしてスマホのブルーライトで睡眠が邪魔されるにはかなり強力な光度であることも説明されている。つまりブルーライトを少し浴びただけで睡眠が阻害されるとは言い切れないのだ。ただ結局のところ、先ほど挙げたような理由やブルーライト自体が睡眠に悪影響を及ぼす可能性自体を考慮して睡眠前には避けるのが賢明だと思う。
また睡眠阻害で話を進めると気になるのはコーヒーの存在である。眠気覚ましによく使われる一方で嗜好品として欠かせないコーヒーは、人を眠らせるアデノシンの働きを抑制する効果がある。それ故に眠気を覚ますのだが、飲むタイミングによっては、入眠のタイミングまで邪魔されてしまう。コーヒーのカフェインは8時間ほど効果を保つという実験結果も出ているみたいなので、余裕を持って午後2時以降は飲まないような工夫をしてみたい。
さてコーヒーを摂取するタイミングの一つにランチが挙げられるだろう。お口の中をリフレッシュしたいという理由の他に食後の眠気を防止するためという理由もありそうだ。実際に私もそれ目的にコーヒーを飲んでいたことがある。しかし、本書には驚くべき記述ある。それはアフタヌーンディップとランチの有無は関係がないとうものだ。じゃあ私たちは一体何に悩まされていたのだ……そう頭を抱えたくなるが、本書にはその原因例として睡眠負債やサーカディアンリズムの存在を挙げている。他にも食後の倦怠感も挙げれている。ここにして気持ちの問題かよと思うかもしれないが、そのような慣習も十分に怠慢の原因になりうるのだと再確認させられた。
朝の起き方についても対応方法とその理由が記載されていて、小さな音のアラームをかけてから数分後に大きな音のアラームをセットしておいたり、裸足で身支度をしたり、起きてすぐに水を飲んだりと行動自体は定番のものだったので、しっかりと継続的に実践していきたい。
○読後のおすすめ
本書を読んでホルモンなどの働きから睡眠について考えてみたく鳴った人は、こちらを一度読んでみてほしい。必ず学びのキッカケが得られるであろう。
真相(横山秀夫)を読んだ感想・書評
読んでいてもどかしさを覚える小説だった。横山秀夫が書く小説というのは得てしてそういうものが多い。しかし、ここに描かれている人間はもっとずっともどかしかった。「なぜだろう」。そう何度も思案した。そして、私が思ったのはこういうことだ。
横山秀夫の小説について私が抱いているイメージの一つが「組織のジレンマに抗う」というものである。警察小説の新しい形を見出した横山秀夫の得意技ともいえる要素が、そのまま私にも染みついているみたいだ。彼らにもそれ相応のもどかしさは感じる。人のために働くことを決意して警察官(もしくは新聞記者か)になったのに、そこには意志を挫く組織の息吹が存在する。自分と組織の守るべきものが対峙したときに人の感情が大きく揺れ動く。それは読み手の感情をも大きく揺さぶる。そして、そのような組織の壁は、なにも警察官や新聞記者にだけあるものではない。どのような組織にも一定数存在していることが多いのだろう。だからこそ、そこに自分の思いを乗せて読むことができるのだ。
ここまで記述して気づいたのだが、本書は「生きる」中でもどかしさを感じさせられることが多いのだと思う。あくまでも「仕事」の延長線上での意思ではないのだ。彼らは生きる中で確実に世界の四隅に追いやられていた。その中で仲間を見つけたり、もっと落ちている人間を見つけたりする。彼らに共通しているのは、何らかの真相を発見したことだ。しかし、それは事件解決の真相ではないのかもしれない。彼らが道を進むための原動力となるものになるだろう。だから読み手は少しもどかしい思いをするかもしれない。出来事ベースで見ると何も解決していないことがほとんどだからだ。しかし、彼らの心理に目を向けたとき、圧倒的な成長やその兆しを目にすることができるのだ。
○読後のおすすめ
最もおすすめしたい横山秀夫の短篇集。人の心理も事件の動きも読み手の感情を大きく動かしてくれる。
パレード(吉田修一)を読んだ感想・書評
今回の書評には多分にネタバレが伴うので、内容が気になる方は読むことをお勧めしない。
吉田修一の一冊といえば、今は話題作の「怒り」が代表的に取り上げられるかもしれない。しかし、山本周五郎賞を受賞している本書も間違いなく代表作にカウントされているはずで、実際に私も本書を先輩からお勧めされた口だ。
実際に読み始めて若者たちの共同生活を見ているうちに、このような小説の難しさを考えさせられた。読んでいても特別な出来事はそうそう起こらないし、読み手に驚きを提供することも難しい。それでも読み進めてもいいかな、そう読者に思わせるには、面白い文章を作者が提供するしかないのだ。その点を考慮すると吉田修一の文章力に気付かないわけにはいかない。ちょっとした笑いや興味を持つような出来事で、点と点を結んでいるうちに物語は驚きの局面を迎えることになる。そこまでたどり着いたときには、さすがに私も頁を捲る手が止まらなくなった。
その大きな要因がサトルの異常性と直輝の犯行である。結局サトルが何をしたいのかは不明であったが、直輝の犯行だって理由のようなものは説明されない。しかし、彼のストーリーを読んでいると、なんだか彼に同情的な気持ちが湧いてこないこないわけでもない。好きなことを仕事にしているものの、やっていることがそれと近いことだけではない。色んな折衝毎に時間を割かれて疲労は増す。一方でそのような時間が不意に私たちに快感をもたらすことがある。何かに縛られていることに、求められていることにポジティブな叫びを求めたくなる。だからといって彼にとって良い時間が続くわけでもない。別れた恋人は彼を適当に使っていて、どこに出口があるのかもわからない道を延々と走らさせている。気が付けば本人にも自覚のない苛立ちの芽が姿を現している。特別な理由のない犯行なのかもしれない。でも、そこには何か世界に向けたメッセージを孕んでいるように思える。そう考えると私は妙な同情心を抱いてしまう。
最後に、犯罪者であることを知りながら生活している同居者のことを「こわい。こわい」と表現した解説文が本書のイメージを一人歩きさせている節が感じられるので、その点について一つ。私は、サトルを除いた三人は直輝の犯行に気が付いていないのではないかと思う。あくまでもな直輝の被害妄想的な想像に過ぎないのではないだろうか。そう思わせる一つの場面がある。それは直輝がランニングに行く前に良介と琴ちゃんにバッタリ会う場面で、その時に二人は気まずい表情を見せていて、それを直輝は犯行の気づきと受け取るわけだが、あれは琴ちゃんが良介に子どもを産まないことを宣言していて、その関与者である直輝が不意に姿を見せたことに対する驚きではないのだろうかと思うのだ。もちろん読み手によって捉え方は多様だが、そういう考えもあるように思えた。なぜなら犯罪者と普通に暮らすなんてそんなに平然と他の同居人を含めて続けられないからだ。ただ、これが家族だったらどうなるのだろうと思った。
○読後のおすすめ
犯罪者と生きているかもしれない。そんな疑いの中、愛する人を信じようとする心の迷いに焦点を与えた作品で、この考え方はパレードという作品のエッセンスにもなっていたのではないだろうか。