1分で話せ 世界のトップが絶賛した大事なことだけシンプルに伝える技術(伊藤 羊一)を読んだ感想・書評
■概要
突然だが読者の方に一つ質問がある。
「あなたはプレゼンで求められることが何か理解しているだろうか?」
答えは「聴き手の行動を促すこと」である。
本書でもこの部分は極めて強調されている。よくある誤解として「理解してもらうこと」があるが、それ自体はプロセスの一つにすぎない。理解して、自分が思うとおりに行動してもらうからこそ、プレゼンの場を設けるのである。
本書の主題もそこにある。タイトルは1分で話すことを強調しているが、それはプレゼンの目的地や組み立て方、話し方(伝え方)という基礎的な要素を確実に組み合わせて、1分で伝えられることができるレベル感で整理されていれば、素晴らしいプレゼンになりうるという可能性を伝えているのだ。
■本書をおすすめしたい人
・仕事でお客様に提案する機会が多い人
・仕事で上司に説明機会が多い人
・発表する際に何をどう話せばいいのか悩む人
■おすすめポイント
本書は基礎的な内容がしっかり、でも読みやすい内容量で書かれている。なので、下手なプレゼン研修を受ける前に一度これを読んで実践してみるのが良いのではないかと思う。
例えばロジックツリーを使った主張のプレゼン方法もしっかり書かれている。
ロジックツリーとは、自分が伝えたい主張を一番トップに置いて、それを支える根拠を三つ、その主張に連なるように書く。その後、その根拠を示す例示を各根拠に対して一つずつ考える。プレゼンする際は最初にその主張を述べて、その後、各根拠と例示を順番に伝えると自分の主張が伝わりやすくなるというフレームワークだ。
本書でも、その辺りの基礎的な学びは充実しているし、チェックリストもあるので、自分のプレゼン前にそれを見返してみるのも良いだろう。
個人的に他にも良いと思ったのは、意外と根性論のところが丁寧に書かれていることだ。例えば、「自分の頑張りを根拠として話す必要はない」とか「アフターフォローも根回しも、やれることは全部やる」とか。後は「自分がその事について一番詳しいし熱量を持っていて好きだという気持ちでプレゼンする。それくらいの気持ちでなければ人は動かない」というのも好きだった。
要は、プレゼンというのは「行動を促す一つの手段」で、その目的を達成するためには何でもやる意気込みが人を動かすのだと伝えたいのだろう。僕はこの考え方が大好きだし、実際に数多くのプロジェクトを動かしてきた著者だから響くのだろう。
「本当に自分は持てる力を出し切ってプレゼンできているのだろうか?
そんな風に疑問を感じた方やプレゼンで悩みを抱える方は、ぜひ本書の購入を検討してみてください。
↓本書の内容を更に深堀する記事をnoteで書いています。よろしければご覧ください。
話し方で損する人 得する人(五百田 達成)を読んだ感想・書評
■概要
全く同じことを話しているのに自分以上にうまく場を回すことができる人が身近にいないだろうか?
僕の周りにもそういう人が存在する。きっと僕と同じことを伝えようとしているのに、より上手く相手に伝えることができるコミュニケーションの天才だ。
しかしこれは生まれ持っての才能ではない。伝え方は努力によって改善できるものだ。
本書を読めば、同じことを伝えようとしているのに、損する伝え方をしている例と得する伝え方をしている人の例が簡単に比較できるので、人がどのようなことを気にして会話を進めているのか学ぶことができる。
■本書をおすすめしたい人
・コミュニケーションで些細な失敗を重ねてしまう人
・ついつい不要な言葉で相手を傷つけてしまう人
・自分のコミュニケーションを見つめ直したい人
■おすすめポイント
本書では話し方の損得比較が44パターンも収録されている。
それぞれ、①家庭・友人編、②飲み会・デート編、③職場・ビジネス編、この三つに分類されていて、読者が気になるポイントは抑えてあると言ってよいだろう。
例えば僕が面白いと思ったのは、①家庭・友人編にある以下の比較だ。
・損する話し方
すぐに質問をはさんで話の腰を折る
・得する話し方
相手の話をすべて聞いてから質問する
これ以降も二人の相談をシュミレートした損得比較の例があるのだが、ここで僕が気がついたのは、要は人が話をするとき、その人は自分の思ったとおりに話したいのであって、相手に好き勝手意見してほしいのではない、ということだ。
このように様々なパターンから人のコミュニケーションを俯瞰的に確認できるのが本書を楽しむ方法としてある。このような視点で考えることができれば、単に44パターンを記憶することを越えた学びがある。
本書を読んでいると自分のコミュニケーションを俯瞰視するきっかけが得られるだろう。
ぜひ本書を読んで自分のコミュニケーションを見直し、より良い人間関係形成に僕と一緒に努めてほしい。
本書の学びを深堀した記事をnoteに書いているので、よろしければご覧ください。
僕たちは人をどう印象付けているのだろう(ある男を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
noteでの連載など何かと話題になっていた印象のある一冊。
愛していた男が事故死。そこで、男が身分を偽っていたことを知る。わたしの愛した男は一体何者なのか。そんな問いから物語は進展を見せる。
本書における主題は以下の文章に表現されていると言えるだろう。
『——愛にとって、過去とは何だろうか?……』城戸は、里枝の死んだ夫のことを考えながら、ほとんど当てずっぽうのように自問した。『現在が、過去の結果だというのは事実だろう。つまり、現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のお陰だ。遺伝的な要素もあるが、それでも違った境遇を生きていたなら、その人は違った人間になっていただろう。——けれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、真実の過去と異なっていたなら、その愛は何か間違ったものなのだろうか? 意図的な嘘だったなら、すべては台なしになるのか? それとも、そこから新しい愛が始まるのか?……』
これは愛を超越した人への信頼における極めて本質的なテーゼだと思う。
このことについて僕も深く考えたことがあった。僕がどれだけ多くの言葉で語っても、どれだけ多くの行動で示しても、僕のことを今から昔に遡って知ることは、この人にはできないのだと思うことがあったからだ。
僕は当たり前だけど僕のことを誰よりも知っている。だから伝わって当然だと思うことも、相手は知らないので伝わらなかったりする。少なくとも僕が思っているほどには伝わらない。僕はこのことが少し寂しかった。
でも今は違う。結局のところ僕のことをどう思うのかは、相手の課題でしかないのだ。つまり、僕がどうこうできることではない。僕にできるのは、相手のことを精一杯愛し尊敬することと、自分のことを精一杯伝える努力をすることだけだ。その結果、僕のことを良く思ってくれたらよい。そう思うしかないのだと割り切れた。
しかし、本書の場合、里枝は男の死によって、彼が身分を偽っていたことを知る。ちょっと知らない過去があったなんてレベルではない。彼女が信頼していたもの全てが嘘かもしれないと宣告されたのだ。
印象的だったのは、里枝が、彼が死んで名前がなくなったことで、彼をどう呼べばいいのか思案しているシーンだった。記憶から手繰り寄せるために大切だった名前が消えたとき、その人の記憶自体も深層に沈んでしまうのだと気づかされた。
僕たちは数多くの属性からその人を形作って見ている。しかし、本当に簡単にその人を表現するものが名前なのだ。その人の名前に、ビジュアルや経歴などの属性が紐づいて記憶しているように僕には思えた。
少し話は前後するが、相手は自分をどう思っていて、自分は相手にどう思っていてほしい、というのはかなり繊細な問題だなと思った。
前述したとおり、人は基本的に自分が一番多くを知っている。もちろんジョハリの窓が提示するように、相手が知っていて自分は知らない領域も間違いなく存在する。しかし、自分は相手にこう思ってほしい、という欲求が生じている場合、その領域について人はあんまり考えない気がする。どちらかというと、自分が知っていて、相手が知らない領域に対するやるせなさが気になるだろう。
相手が思う自分と相手に見せたい自分でアンマッチが生じる場合、その多くは、相手は自分を行為やラベルを中心に見る、自分は内に秘めた自分という存在を見せようとすることによって生じているように、本書を読んで思った。
よく恋愛で「行為で示してほしい」や「言葉がなければ信じない」という(主に)女性の言葉を耳にしたことがあるだろう。これは、上記のような理由から生まれた言葉だと思う。よくよく考えると当たり前なのだが、行為や言葉によって世の中に表現されていないものは、他人からすると無いに等しいのだ。
僕たちは言葉や行為にして相手に伝える必要があるのだ。
恋の話を盛りこんだところで思い出すのが、城戸が浮気心を抑え込むワンシーンだ。
僕は、このシーンの城戸をとても尊敬している。憧れにも等しい女性が自分に気持ちを寄せていることに気づく、しかも二人で新幹線に乗っているので、邪魔するような者もいないだろう。それでも自分の気持ちを理解して、相手の気持ちを尊重したうえで、大切なもののためになかったことにする勇気を僕は素敵だと思った。
城戸はメタ認知力がとても高くて、自分の状態をとても冷静に眺めようとする。人によっては気持ち悪いと考えるかもしれない。城戸の姿勢は、自分の感情を抑圧しているように思えるからだ。でも、この姿勢こそ僕に必要なものなのだろうと思った。メタ認知能力は人を大きく成長させる。時には見えなくてもいいものが見えてしまうかもしれない。でも、それを乗り越えることで普通に生きるのでは実感できない成長を実感できるのだと思う。
様々な角度から人の存在と実態について考えることができる良い小説だった。
平野啓一郎の小説をもっと読んでみたいと強く思った。
メモで人生を変える(メモの魔力を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
発売前から大変な反響があった本作。
Twitterを眺めていると、十に一つはメモの魔力に関するツイートだったし、本屋に行くと一番大きな棚にかなりの面積量で積まれていたりした。誰もが前田裕二のことが好きなのだし、彼のような思考力を持ちたいと願うがゆえなのだろう。
そして本書は、そんな彼が度々語ってきたメモ術の完全版ともいえる内容になっている。僕は、数ヶ月前から彼のメモ術をマネしていて、そこで得られるものの大きさに驚くばかりだったので、この記事を読んだ貴方にも、ぜひマネしてみてほしい。
■わかったフリで失うこと、メモの習慣で得られるもの
ついつい分かったフリをしてしまった経験は皆さんにないだろうか?
きっと一回は経験があるだろう。
ちなみに、これはまだよい方で、もっと良くないのは、何もわかっていないのに分かったフリをすることだ。このようなケースの場合、話が唐突に進みすぎて理解できなかったのに、そのまま頷いてるような姿が思い浮かぶ。
これらに共通する問題点は、情報を素通りしてしまっていることだと僕は考えている。
前田裕二が紹介するメモ術は、世の中にある無意識に通り過ぎてしまいそうなファクトが生み出すものものから目を背けずに言語化する作業によって最高の知的生産が生まれる。
つまりメモは情報を素通りさせなくさせる。
きっとこの効用は学校教育の中で誰もが知っている。備忘としてのメモの活用法だ。本書では、それだkではなく知的活動としてメモを使用していることが先ほどの一文からお気づきいただけただろう。
※前田裕二のメモにはフォーマットがあるのだが、それはネット検索か書籍を購入して確認してほしい。
前田裕二は、メモによって5つのスキルが鍛えられると述べている。
①アイデアを生み出せるようになる(知的生産性の向上)
詳細は後述するが、目の前にある事象を抽象化して、それ以外の事象に転用することで、様々なケースにおけるアイデア活用が可能になる。単に事象を受けて「感動した」と思うだけではたどり着けない場所にメモは僕たちを導いてくれる。
②情報を「素通り」しなくなる(情報獲得の伝導率向上)
既に冒頭部分で述べたように誰しも情報を素通りして痛い目にあった経験があるだろう。
実際に僕もたくさんそのような経験をしている。そして、ここ数ヶ月、前田式のメモをする中で気づいたことは頭が冴えるし、他の人よりも先に思考している感覚があることだ。逆にメモをサボったタイミングでは、他の人と変わらないか劣っていることもしばしば……。改めてメモするという姿勢がキャッチする情報量に驚いている。
③相手の「より深い話を聞き出せる」(傾聴能力の向上)
既に述べているように、メモした方が多くの情報をキャッチできるのだから、相手の話を深く理解して、より多くのことを聞き出せるのは理解いただけるだろう。
それだけでなく、メモして話を聴くという姿勢自体を相手は評価してくれることがある。つまり、少しでも相手の話をメモして学ぼうという姿勢を相手が評価して、多くのことを語ってくれるケースである。
ここから学ぶことができるのは、相手との対話で重要になるのは、実際的なやり取りだけでなく、そこにある雰囲気や文脈であるということだ。見た目が9割というのは、一時期、書籍を通じてブレイクし認知されたが、そこから一歩踏み込んで色んな姿を相手に見せることで、相手の話を引き出そうとする姿勢も大事になるということを理解しなければならないと感じる。
④話の骨組みがわかるようになる(構造化能力の向上)
これはある程度意識しながらメモをとる必要があるかもしれないが、相手の話をメモすることで相手が今どの話をしているのかが理解できるようになる。
例えば相手が過去の経験から得られた教訓を話しているとき、相手の話が時系列に進むとは限らない。そこでメモしながら、今その人がどのタイミングの話をしているのか追記していけば欠けている観点が見えるかもしれないし、多少相手の話が前後してもついていくことが容易だ。ここでメモを怠ると、その出来事単位で話を聴いてしまい、重要なポイントや俯瞰的にストーリーを見ることができなくなる可能性がある。
つまり、情報の粒度やストーリーを見る視点ができてくるのだ。
⑤曖昧な感覚や概念を言葉にできるようになる(言語化能力の向上)
メモするということは嫌でも言語化するということで、その能力が向上する。
人によっては「そこまでして言語化することに意味があるのか?」と思うかもしれないが、これは大アリだ。
言語化できないと思考の深まりがなく、再現性のない事象になってしまうと僕は考えている。
かつて小説家に僕は憧れていた。なぜなら彼らは言語化する能力が高く、様々な場面を描いているので人の気持ちもわかる。ということで、人と接する中で僕が抱える問題を彼らなら上手く解決してしまいそうだなと思ったのである。
しかし、本を読んで語彙力を鍛えても人との間で生まれる悩みは消えない。むしろ人が認識している語彙には差異があって、それが邪魔をしているようにさえ思える。じゃあ言語なんて不要なのでは?
とても短絡的な僕はそう思った。が、言語が消えた世界を考えてみると、とても酷かった。僕たちはボディランゲージやそれっぽい記号で、自分たちが思うことの表現をしなければならない。むしろ、言語がないのだから自分が思っていることが何なのかもわからない。カオティックな渦の中で頭を抱える人の姿が脳裏に浮かんだ。
そこで僕は言語の重要性に気づいた。まず自己成長に言語と(後述する)抽象化が欠かせないこと。そして、相手の言語に寄り添い話を聴くことの重要性だ。だから、ここで前田裕二が、言語化の重要性を述べることの大切さが深く刺さる。
■リアルタイムでメモをとるメリット
リアルタイムでメモをとることによって自然と成長することがある。
まず、前田式のメモ術では、4色のボールペンを使用する。色分けによるメモや構造化を意識したメモでリアルタイムの判断力や理解力が向上するのだ。これでわかったフリの防止だけでなく、今話していることの次のステップへ思考が向くようになる。
そして、前田式で特徴的なのが、メモに標語をつけることだ。標語はトークテーマのようなもので、標語を考えることによって、話題を構造化する力が養われ、相手に説明する際にも伝わりやすい話し方ができるようになる。よく結論や着地点から相手に話せと言わるだろう。それを自然と考えさせるのが、標語部分だ。
■抽象化は人類が得たクリエイティブなアクション
前田裕二は異常なくらい言語化することにこだわりを持っている。そして、抽象化することにも異常な熱量を注いでいる。
そもそも前田裕二のメモのフォーマットが、事実→抽象→転用、のフローになっていて、抽象化したことを転用して実践することに重きが置かれている。
抽象化することがなければ、人の会話は成り立たないと言っても過言ではないと僕は思っていて、そう考えると人の日常を支えるビジネスを考える前田裕二が、抽象化に熱を注ぐのは当たり前なのかもしれない。
抽象化では、「他の具体にも当てはめて転用すると、同等以上の効果を得られる」を原則に考える必要があると前田裕二は述べている。僕は、原理原則を導き出せないと抽象化とは呼べないのでは? と変に高くハードルを見積もっていたのだが、これさえ満たせばよいのか、と少し気持ちが楽になった。
本書では抽象化の3つの型が紹介されていた。簡単に記載したい。
①what型。
名前をつけるだけなので、あまり発展はしない。
②how型。
方法や特徴を考えるもの、転用することが容易なので使いやすい。
③why型。
様々な事象の原因を考えるもの。全てに当てはまるかは別としても、ゼロベースで考えるより生産性の良い知的活動になる。これは特に重要な型で、人がなぜそう感じるのかは、他のビジネスでも応用できることが多いので、しっかり腰を据えて考えることが大切だ。
そして、③why型については、以下の4つは特に検討する必要があるものとして挙げられていたので、これに触れる場合は、必ず検討するようルール化してしまってもいいだろう。
①世の中でヒットしているもの。
②自分の琴線に触れるもの。
③顧客からの要望。
④社内で起きている問題や課題。
本書では、我見と離見が抽象化を加速させるとして紹介されていた。
我見とは自分の目、つまり主観から物事を見ることで、メモする場合は主にこの視点を、意識せずとも活用することになるだろう。
一方で離見とは、俯瞰的に物事を見ることで、メタ認知と表現する人も多いだろう。きっと抽象化を重ねていると離見の癖がつくと思う。抽象化される事象は、様々な場面に応用できるもので、つまり客観的に見ることが抽出の条件になってくるからだ。
自分をメタ認知する方法として紹介されていて、面白かったのが、毎日写真を50枚撮るというものだ。写真を毎日50枚も撮っていると、「花ばっかり撮るな」というように自分のその時の傾向がわかるらしい。前田裕二は、ここまでして自分に制約をかけることをするのか! と驚かされた。
このようにして抽象化されたことをとにかく自分の目的に沿って転用していく。そうすることで、自分が学んだ事象から数多くのことを自分事として実践することが可能になるのだ。
■メモで夢を叶える
前田裕二は、SHOEROOMのビジネスモデルをメモから考えたという。なので、言語化することでで夢は叶うと述べている。
その理由として2つ挙げられている。
①マインドシェアの問題。
言葉にして書くことで脳裏に残り、自分の気持ちがそこに割かれる。つまりそこに意識を向けた行動ができるようになるのだ。これは、プライミングとカクテルパーティー理論で証明されていることに考え方としては近いと思う。
これに対する例示として前田裕二が挙げているものが興味深いので、以下に引用したい。
突然ですが「なぜ流れ星を見た瞬間に願いを唱えると夢がかなうのか?」、考えてみたことがありますか? 願いがお星様に届くからでしょうか。おそらく、違います。僕が思うには、「流れ星を見た一瞬ですら、瞬間的に言葉が出るくらいの強烈な夢への想いを持っているから」です。そして、その強烈な夢への想いの結果、片時も忘れず、ずっと願っているからです。想いは強ければ強いほど、行動への反映率が上がります。そして、行動こそが、夢が手に届く場所に僕らを連れて行ってくれます。
言語化に魂を込めているからこそ生まれた解釈で非常に面白いなと思った。
②言霊の力。
言葉にして人に伝えていると自分に返ってくると前田裕二は述べる。
これも確かにそうだろうなと僕は思った。なぜなら、相手は自分をその言葉や態度で評価するので、そういう人という印象を植え付けておくと、それに関連する情報が入ったときに、自分のことを思い浮かべやすくなるのだ。きっとあなたもそうやって友人に情報提供しているはずだ。
だから、自分が絶対に叶えたい夢は、言葉にして周囲に明確に言ってしまうべきだろう。
本書では自己分析に対する強いこだわりも書かれている。
自己分析で事象を抽象化して具体的なアクションに結びつけるのが、その肝になっている。
例えば、そこで得た過去の経験への示唆をストーリー化して人に話すことで、あなたの夢を応援する人になってもらえる。人はストーリーで共感し、学ぶ。言語がないときに記号や絵で横並びにストーリーを書いていた文明の存在から肯定できると僕は考えている。
きっと前田裕二は、数え切れないほど言語化し、ストーリー化することで人を引き付けてきたはずだ。僕たちも彼から多くを学び、実践することで自分たちの夢を掴む必要があるのではないだろうか。
正義の道を歩む僕ら(ブラックライダーを読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
直木賞で東山彰良の「流」が満場一致の受賞を達成した際、あの宮部みゆきがこう言った。「東山彰良の最高傑作は、ブラックライダーである」と。かなり癖のある作品だが、確かにこのように言われるのも頷ける。これだけの世界観を作り上げることは、僕にはできない。前日譚を描いた「罪の終わり」を含めて、とんでもない世界を生み出したものだと思う。
■こじつけでもいい、僕たちは理由が欲しいだけだ
第二のブラックライダーと呼ばれた、ジョアン・メロヂーヤ。途中から彼の起こした行動によって物語が大きく動くのだが、あの戦争を3つの観点から見ることができると僕は考えている。この三つの観点とは、それぞれの立場を示すものであり、なおかつ彼らの意志と行動理由を示すものである。
①ジョアンの視点。蟲の感染を感知することが可能な彼は、そこで感染者を殺さねば当人にも周囲の人にも苦しみを生むと考え、他人の魂を救うために自分の魂を汚す。物語中でこのようなフレーズが何度も出てくるし、ここに彼の強い意志が感じられる。
自分を好きになるために人が嫌がってやらないことをやる。それは人を殺すことに直結するし、彼自身も大きな苦悩を抱えていることは明らかだった。やるしかないからやる理由を作っているが、どこか破綻しているカオティックなところに彼の使命感を僕は幾度となく感じた。
②ジョアンに寄り添う人。彼らは大凡二つに大別される。親しい人をジョアンに殺された人と蟲の恐怖から逃れたい人。どちらもジョアンを憎んだっておかしくない存在だ。
それでもジョアンを慕うのは、ジョアンがやらなければいずれもっと苦しい痛みが亡くなった人を襲っていたという仮定や、その痛みが自分に向かうリスクを下げたいという期待があるからである。
どういう状態に向かおうと苦しいものは苦しい。
ここで一つの希望は、悲しみを背負うと宣言するジョアンという存在に、思い悩む自分の負の感情を重ねることができることだと思う。みんな苦しい。でも、それを本心から理解し、背負うことを厭わない人は少ないのである。
人が特別な存在と認められるのは結果を残した時である。でも、その結果は実態を伴っているとは限らない。たぶん第一情報を受ける人は、その実態のある結果に納得しているのだろう。第二情報を受け取る人は、それを伝える人を信頼しているか、そのような結果に飢えているのだろう。
本書の中でジョアンを信じる人のコミュニティ形成はこれに倣っていて、非常に考えさせられた。結局僕たちは、それを伝える人を信用しようとしているときがあるのだ。
③ジョアンと敵対する人。これらは②の逆説だと言えるだろう。
つまり経験したことは同じか、それに等しい。でも、そこ経験をどう捉えるのかにおいて、彼らの考え方は根本的に異なる。親しい人がジョアンの手によって殺められたという事実を中心に解釈するとこのようになるのだろう。でも、これを否定することはできない。事実は事実として存在しているのだから。
どちらが正しいのかは分からない。ただ、僕たちは一つの経験から様々な感情を呼び起こすことができるという事実が明らかになった。それなら僕はどうするのだろう。そう考えさせられる。
■正義の道
三者の視点で、それぞれ物語を見ていると、僕たちは何を信じればいいのか分からなくなる。
例えば、バードたちは、原因は蟲なのに、蟲が本当に人を殺すのか確証がないと主張し、蟲の感染を理由に殺して回るメロヂーヤに哀しみの理由を押しつけているようにも思える。バードはそのことをメタ認知しているが、動き出した船を止めるつもりもない。そこには生への諦念が滲む。
バードの苦悩を知るうちに僕はこう思った。
正しいことが正義ではなく、信じられることが正義なのではないか。
僕たちは大切な軸を常に持つ必要がある。なければ、何を信じて、どう動くのか、都度信じて後悔を生む行動が連鎖してしまうかもしれない。
クリスチアーノが壁に描いた絵のように自分の中にも様々な人間が存在する。しかし真ん中には聖人が存在しなければならない。自分にとって大切なことと違うものを見分ける力。そして、そもそも大切なものが何かを決める力。これらを持ち、人のことを主体的に愛することができる精神を持つのだ。
このことを常に忘れないことだ。僕たちが信じるべきは、僕たちが持つ生きる軸に沿った事であるべきだ。そして、そこから事実を読み取って検証する力を生きていく中で養う必要がある。
■心に刻む別れ
僕は通勤中にラストシーンを読んでいて、思わず涙が溢れそうになった。
ありふれた日常の中に、いつも存在する悲しい別れの名残り。
良い別れは辛いのだと思った。なぜなら、その人はずっと心から離れないから。むしろ多少の憎しみを伴うほうが楽なのかもしれない。だから人は何かしら否定的な理由をつけて別れようとするのかもしれない。でも、それは短期的な見方だと思う。もしも、本書の二人のように長い時間を越えて繋がる瞬間が訪れたとき、僕たちは良い別れを肯定し、涙するだろう。
後悔を生み出すエゴに勝つ(エゴを抑える技術を読んだ感想・書評)
僕は頻繁に後悔する。それこそ毎晩のように悔しい思いをしながら、その日の自分を振り返っていたりする。
その度、もっとこうしておけば良かったと反省するのだが、そのうち大抵のことは「相手の意思を尊重」するようなことに落ち着く気がしている。つまり、自分自身を強く打ち出しすぎたことによる後悔だ。
もちろん自分を殺していれば後悔しないというわけではない。自分の考えをしっかり明示することも大切だと思う。一方で、直観的に自分勝手な思いで実践したことが、思いもよらぬ結果を生むことがある。この「直観的に自分勝手」が自分の中で「エゴ」と呼ばれるもので、僕はこいつを想定しながら本書を読んだ。
唐突だが、著者は本書の中で人生を三つに区分できると述べている。
①夢をつかもうとするステップ。②夢を叶えたステップ。③夢に破れ失敗したステップ。
この三つである。著者はかなり大きな挑戦に取り組んできた人なので、夢を取り入れたこのような区分になっているのだろう。しかし、エゴの表出は、どのような場面でも有り得る。区分にこだわるよりも、抽象化して、自分に当てはめて考えることの方が大切だろう。
そして、夢をつかむと書くとかなり大げさに思う人もいるかもしれない。が、ここでは自分が目指す姿や目的に向かって行動するプロセス全般を指していると考えれば良いだろう。そう考えながら僕は本書を読んだ。
■夢をつかもうとするステップ
夢をつかむとは大変な苦労を伴うことである。それなのに、行動する代わりにネット上などで大げさに話して満足してしまうタイプが存在する。そう本書で指摘されている。
実際にそのような人を見つけるのは難しくないと思う。何なら自分のことが心配になるくらいで、それについて語ることは容易い。
結局のところ、魂を込めて本気でそれについて取り組むのは難しい。これは慢心というエゴかもしれない。言葉にして人からリアクションを得ただけで、何かを達成したような気分を得てしまうのだ。
人はエゴによって、本来の目的から逸脱してしまうことがあるということだろう。次は成功してから表出するエゴについて考えてたい。
■夢を叶えたステップ
正直なところ僕には想像しにくいパートではあるのだが、あくまでも夢の大小に関係せず、自分の目的を達した後の周囲との関係性に着目して考えてみたい。
最初に、権威について考えてみよう。
権威があることと、権威になることは本来違う。ただ権力を持っただけで本当に権威のある優れた人間になったとは限らないからだ。それでも人は勘違いをする。ヒエラルキーは相対的に判断する人の思考を助けるし、その階段を登った人は、あたかも大きな何かに成ったような感覚を得てしまう。
あなたの周りにもそのような人がいるかもしれない。僕の周りでも思い浮かぶ人がいないわけではない。
このような地位やキャラクターによるポジションを得た僕たちは、いつも不安だ。恥をかかされたり、傷つけられたり、軽く扱われたりするんじゃないか、と。
しかし、本来アナタの目指していたものは、その地位や権威なのだろうか。それは付随的にアナタが得たものでしかなくて、アナタにとって大切なものは他にあるのではないだろうか?
人の心は弱い。それ故、気づかないうちに心の形が思いもよらない形になっていて、ぽっかりと隙間が生まれていたりする。それなのに自分が成功した途端にエゴが心に食い込んでくる。人は成功、ポジティブな状態になるとリスクに対する認識が弱くなると言われている。これを心の油断と考える人もいるかもしれない。
よく考えてみてほしい。必死の努力で昇進を勝ち取り部長の立場になったとする。それまでにアナタがした努力は間違いなく本物だろう。周りの人が見せた笑顔も、間違いなくアナタに向けられている。
しかし、そこで得た「部長」という役職は、あくまでもレポートラインと役割を表すものに過ぎない。
確かに、アナタが社会で成し遂げたかったことを実施するには、部長という強い影響力を持つ役職に就く必要があったかもしれない。しかし、それは部長という役職を使って周りを従えたかったからなのだろうか。きっと違うはずだ。
もし仮に、その役職によって高プレッシャーがあって、それを誤魔化すために権威を振りかざしていたとするのであれば、弱いアナタの心を心配する。でも、そこで誤魔化すのは問題だ。それを周囲に表現し、協力を得て、大きな問題に対するチームの原動力にすべきだと僕は思う。
全ては大切な目的のためにあるべきだ。エゴはそこに入りこんではならない。どんな理由があっても、僕たちが自分勝手に振る舞っていい理由にはならないのだ。
■夢に破れ失敗したステップ
最後に失敗のステップについて考えてみる。
失敗は、善良な人にも悪意ある人にも降りかかる。また、自分が引き起こした失敗であろうとなかろうと自分に関係する事象であれば、それに対処する必要がある。この考え方は意外に忘れがちな気がする。可能な限り責任転嫁してしまった方が楽なのだから当然なのかもしれない。疲れているときは、特にこの発想がないか注意したい。
自分の経験を振り返ってみると失敗時のエゴは少し特異な気がする。自分の気持ちを下向けにしたり、周りをネガティブな言動に巻き込むようなものを僕は想像している。
このようなネガティブなエゴの発生原因は、自分起因のものがあれば、周囲によって生まれるものもあるだろう。
自分起因であろうと、周囲からいかなる行為によって傷つけられた場合であっても、自分の努めを果たすことに全力を注ぐこと。これしかないのだろうと思う。他者に自分の人生を委ねてはならない。もちろん相手に自分の人生を委ねてもいけない。自分の目的に向かって歩くのみ。その中で相手を尊敬し、協力することができれば、その人たちと仲間になって、共に歩けばよいのだ。
僕たちはもっと語ってもよいはずだ(十二人の死にたい子どもたちを読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
映画化が決まった話題作。その特異なテーマ設定から世間の注目を集めている小説である。
設定を一言で表すならば、クローズドサークル下におかれた子どもは全員が自殺志願者。そのテーマはゆっくりと語られていくもので、むしろタイトルから察することによって多くの情報が得られる。本書は、想定より1人多い志願者が現れたことで不信感が募り調査を始めることからミステリとしての要素が顔を見せ始める。
「大きな選択のために」……ここに集まった彼らが頻繁に口にするセリフである。この大きな選択が「自殺」を指していることは、既に読了している皆様はすでにご存じと思う。
読んでいて考えさせられるポイントは、そこに至るまでに彼らが歩んだ小さな選択と過去についてだろう。この部分は、読者によって見解が大きく異なると思った。なぜなら、それぞれ経験していることは特異なものや、既に世間で認知されている難しい問題によるものなのだが、語り方が感情的かつ語り手が子どもであるというバイアスが僕たちの思考に潜んで、「子どもだから忍耐がないな……」というような認知を生み出しても不思議ではないと思ったからだ。
しかし、こうやって切り捨てることはよくない。どの問題が一番大変かなんて、人には決めようがない。人によって世界の見方は大きく異なるからだ。そもそも、この問題が一番大変だと言い切る人の、その考え自体がその人の思考フレームにはまっている。
ただ正直なところ、安楽死を認めるかどうかは僕には分からない。ケースとして挙げられているものに様々なストーリーがあって、僕の感情は色んな方向に向かって行ったり来たりを繰り返してしまうから。ただ、この世界で生きていて苦しい部分があって、それが自殺の理由になってしまうのであれば、それは悔しいなと思う。死ぬ必要なんてないのであれば、そちらの方がいいと僕は単純に思った。この単純さをもって、色んな課題を抱える人に支援の手を向けてあげる必要があるのだと思う。
そのためにも僕たちはもっと多くのことを知る必要があるし、より多くのことを話し合う必要があるのかもしれない。少なくとも僕の周りにいる人は、自分に関与しないことは全く話さない人が多い。変えられないものに力を割き続けることは、僕も反対だ。でも、俯瞰的に僕たちを取り巻く環境や問題を知り、それについて意見をぶつけることは、とても大切な学びの機会を損ない続けているように思う。そして、その積み重ねがなければ、いざ僕たちの前に大事な選択が来たときに、適切な判断ができないかもしれない。僕はそれが怖い。
本書では、同じ目的を持った子どもたちが集まり、自分たちの選択について語っている。
同じ悩みや傷を抱えた人によるオープンな語りは、心を癒す効果があると報告されているのを見た記憶がある。僕が思うに、ここには2つの作用が隠れている。
①話すことによって、自分の中でストーリーが生まれ、納得性が増す。自分が傷つく過程を人に語ることで一貫性のあるストーリーになり、頭が混乱から覚めるのに寄与すると僕は考えている。それまで頭の中で蓄えていたカオスが少しでも整理されると人の気持ちは少し楽になる。これは脳が一貫性のある情報を求めていて、頭の中で考えているだけのときは、色んな情報を考慮しすぎて具体的なストーリーになっていなたかったが、人に話すことで余計な部分が削がれた良いストーリーになるのだと思う。
②共感作用。人に話す前は頭の中で問題が肥大化し続けている。そうなると脳の作業領域には、自分の不安感情が溢れて、行動する余裕が生まれなくなる。それが言葉に発することで世界に表出され、それを受け入れてくれる人がいた場合、この問題は自分だけが悩むものじゃないんだ、と思うことができる。不安感情が意味をなさなくなり、次の行動を考える余裕が生まれるのだ。
本書を読んで、一つの大きなテーマに対して自分の完全回答が生まれたとは思えない。でも、人によって問題の捉え方と重要度は異なることや、オープンな語りがもたらす効用について整理することができた。ミステリー小説でこのように考えることができるのは、本当に幸せなことだと思った。