ライアン・ホリデイ パンローリング 2016-12-10
もちろん自分を殺していれば後悔しないというわけではない。自分の考えをしっかり明示することも大切だと思う。一方で、直観的に自分勝手な思いで実践したことが、思いもよらぬ結果を生むことがある。この「直観的に自分勝手」が自分の中で「エゴ」と呼ばれるもので、僕はこいつを想定しながら本書を読んだ。
この三つである。著者はかなり大きな挑戦に取り組んできた人なので、夢を取り入れたこのような区分になっているのだろう。しかし、エゴの表出は、どのような場面でも有り得る。区分にこだわるよりも、抽象化して、自分に当てはめて考えることの方が大切だろう。
そして、夢をつかむと書くとかなり大げさに思う人もいるかもしれない。が、ここでは自分が目指す姿や目的に向かって行動するプロセス全般を指していると考えれば良いだろう。そう考えながら僕は本書を読んだ。
■夢をつかもうとするステップ
夢をつかむとは大変な苦労を伴うことである。それなのに、行動する代わりにネット上などで大げさに話して満足してしまうタイプが存在する。そう本書で指摘されている。
実際にそのような人を見つけるのは難しくないと思う。何なら自分のことが心配になるくらいで、それについて語ることは容易い。
結局のところ、魂を込めて本気でそれについて取り組むのは難しい。これは慢心というエゴかもしれない。言葉にして人からリアクションを得ただけで、何かを達成したような気分を得てしまうのだ。
人はエゴによって、本来の目的から逸脱してしまうことがあるということだろう。次は成功してから表出するエゴについて考えてたい。
■夢を叶えたステップ
正直なところ僕には想像しにくいパートではあるのだが、あくまでも夢の大小に関係せず、自分の目的を達した後の周囲との関係性に着目して考えてみたい。
最初に、権威について考えてみよう。
権威があることと、権威になることは本来違う。ただ権力を持っただけで本当に権威のある優れた人間になったとは限らないからだ。それでも人は勘違いをする。ヒエラルキーは相対的に判断する人の思考を助けるし、その階段を登った人は、あたかも大きな何かに成ったような感覚を得てしまう。
あなたの周りにもそのような人がいるかもしれない。僕の周りでも思い浮かぶ人がいないわけではない。
このような地位やキャラクターによるポジションを得た僕たちは、いつも不安だ。恥をかかされたり、傷つけられたり、軽く扱われたりするんじゃないか、と。
しかし、本来アナタの目指していたものは、その地位や権威なのだろうか。それは付随的にアナタが得たものでしかなくて、アナタにとって大切なものは他にあるのではないだろうか?
人の心は弱い。それ故、気づかないうちに心の形が思いもよらない形になっていて、ぽっかりと隙間が生まれていたりする。それなのに自分が成功した途端にエゴが心に食い込んでくる。人は成功、ポジティブな状態になるとリスクに対する認識が弱くなると言われている。これを心の油断と考える人もいるかもしれない。
よく考えてみてほしい。必死の努力で昇進を勝ち取り部長の立場になったとする。それまでにアナタがした努力は間違いなく本物だろう。周りの人が見せた笑顔も、間違いなくアナタに向けられている。
しかし、そこで得た「部長」という役職は、あくまでもレポートラインと役割を表すものに過ぎない。
確かに、アナタが社会で成し遂げたかったことを実施するには、部長という強い影響力を持つ役職に就く必要があったかもしれない。しかし、それは部長という役職を使って周りを従えたかったからなのだろうか。きっと違うはずだ。
もし仮に、その役職によって高プレッシャーがあって、それを誤魔化すために権威を振りかざしていたとするのであれば、弱いアナタの心を心配する。でも、そこで誤魔化すのは問題だ。それを周囲に表現し、協力を得て、大きな問題に対するチームの原動力にすべきだと僕は思う。
全ては大切な目的のためにあるべきだ。エゴはそこに入りこんではならない。どんな理由があっても、僕たちが自分勝手に振る舞っていい理由にはならないのだ。
■夢に破れ失敗したステップ
最後に失敗のステップについて考えてみる。
失敗は、善良な人にも悪意ある人にも降りかかる。また、自分が引き起こした失敗であろうとなかろうと自分に関係する事象であれば、それに対処する必要がある。この考え方は意外に忘れがちな気がする。可能な限り責任転嫁してしまった方が楽なのだから当然なのかもしれない。疲れているときは、特にこの発想がないか注意したい。
自分の経験を振り返ってみると失敗時のエゴは少し特異な気がする。自分の気持ちを下向けにしたり、周りをネガティブな言動に巻き込むようなものを僕は想像している。
このようなネガティブなエゴの発生原因は、自分起因のものがあれば、周囲によって生まれるものもあるだろう。
自分起因であろうと、周囲からいかなる行為によって傷つけられた場合であっても、自分の努めを果たすことに全力を注ぐこと。これしかないのだろうと思う。他者に自分の人生を委ねてはならない。もちろん相手に自分の人生を委ねてもいけない。自分の目的に向かって歩くのみ。その中で相手を尊敬し、協力することができれば、その人たちと仲間になって、共に歩けばよいのだ。