映画を鑑賞してから約半年が経ったころ、僕は原作である小説版の「怒り」を読むことにした。小説好きである職場の先輩に「小説の方が背景を深く知れて面白いから」と勧められたことがキッカケだ。しかし、僕はこれを素直に受け取れなかった。小説を卑下していたわけではない。映画があまりにも素晴らしすぎたからだ。言葉にできない感情で体が重くなる経験をしたのは初めてだったかもしれない。あまり気持ち良い内容ではなかったけれど間違いなく記憶に残る一作だった。
実際に小説を読んでみて、映画とは全く違うような見え方がして驚いた。当たり前だけど、映画はこの小説を元にして作ったもので、小説は映画を意識して作ったものではないだろう。それでもなお、その違いについてここで言及しておきたい。
映画には狂気のような瞬間が満ちていた。心理描写が読み取れないので、それぞれ物語を動かしている人物たちですら何を思っているのかがわからなかったし、犯人の山神はもっとだ。ホラー映画を見たような反射的な恐怖ではない。頭で感じ取り、身体の奥底から震えが生まれるような、そんな恐怖だ。
一方で小説にそこまでの恐怖は感じなかった。画面で見ることがないことも理由の一つかも知れないが、それ以上に自分が納得している一つの答えがある。それは、山神を含む各人物に共感できることである。もちろんなぜ犯罪をしたのかという明確な殺意やその原因について理解できるという意味ではない。ただ、何となくこの世界で生きているうちにひしひしと感じる怒りを彼に投影することで理解しているだけなのかもしれない。そんな感情が溢れてくると、僕は無性に顔を歪めたくなる。読むことをやめたくないけど、どこかで感情を噴出させたくなるような描写に出会うと僕はそんな表情をしてしまうことがあるらしい。
そして、そのような表情をしてしまうような瞬間がこの世界には溢れている。特に都会には多いような気がする。満員電車のように個人がパーソナルスペースを失う場面にそのような瞬間は訪れやすいのかもしれない。明確な言葉で伝えられないのが残念だけど、きっとそこには余裕がないんだと思う。精神的にも、物理的にも。
この小説には「信頼」というテーマが与えられている(もしかしたらマーケティングの観点なのかもしれないけど)。僕は、それ以上に今回語ったような怒りへの共感の側面が響いた。それが著者の狙いなのかはわからないけど、何かを得ることができる小説だと保証することはできるだろう。
○読後のおすすめ
吉田修一のヒット作。今回のブログに投稿した内容は、きっとこの小説を読むことで育まれた考えが、影響している。皆さんも気になるのであれば読んでみてほしい。
すでに読了している方に向けて書いた記事である。