ヴィクトール・E・フランクル みすず書房 2002-11-06
著者は強制収容所に収監された精神医学者である。強制収容所でも医師の診断が必要になる場面はあったらしく、その働きも描かれているが、基本的に過去の職や役割など皆無として扱われていることがわかる。わたしはカズオイシグロの「
忘れられた巨人 (ハヤカワepi文庫)」を読んでいて人の記憶がもたらす役割について考えたことがあった。人の記憶は、誰かの役割を作ることにも一役買っていて、強制収容所の人たちはほとんどの記憶をなくしたような生き方をしていたことが印象に残っている。一方で自分の大切な人については強く記憶していることもあって、そのことを糧に生きている場面もわたしの心を強く打った。ただし、その大切な人たちと同じ場所に収容されている可能性は皆無に近い。事実著者も妻が生きていることを妄想しながら働いていたが、実際に彼女は亡き人となっていた。
本書で有名になった概念のひとつがアパシーである。本書ではどのような卑劣な光景が過っても、その人に同情しなくなるプロセスが描かれていたが、これだって現代にあてはめられる概念だ。例えば、わたしは就職活動をしているときから、頻繁に怒られるような企業には就職したくないと考えていた。反省することは大事だけど、怒ることは必須のプロセスではないと考えていたからだ。しかし、いざ就職してみた企業では怒る上司が存在していた。わたしは直観的に「嫌だな」と思った。それでも朝会で毎回のように怒声を浴びている先輩を見ているうちに「一体この人は何をしたんだろう」「こんな風にならないようにできることはなんだろうか」と考えるようになった。気がつくと、その光景に対して何も感じなくなっていて、時折共通の知人と「あの人また怒鳴られてたよ」なんて、ちょっとした笑いに帰る始末だ。二週間で人は慣れるというが、確かにこんな風に常態化することはあるのだと改めて実感させられた。
では、わたしの体験談で怒声を浴びる対象になっていた人はどんなことを考えていたのだろうか。そのヒントになる一節を本書から抜粋したい。
強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう。内面の自由と独自の価値をそなえた精神的な存在であるという自覚などは論外だ。人は自分を群衆のごく一部としか受けとめず、「わたし」という存在は群れの存在のレベルにまで落ちこむ。きちんと考えることも、なにかを欲することもなく、人びとはまるで羊の群れのようにあっちへやられ、こっちへやられ、集められたり散らされたりするのだ。
この群れの感覚をかつてわたしも感じたことがある。この変革の時代が一面的にそういう感覚を生み出しているのだ(とわたしは勝手に思っていた)。例えば学校では自己の尊重をとても大切にするようになった。生き方に対して直接的に何か決められた考え方を強いることが減少したと思う。だからだろうか、子どもたちは自由に夢を見る。YouTubeのような環境が整っているから自分の憧れる人だって近くに感じやすい。一方で現実はそう簡単ではない。(子どもだから当然かもしれないが)画面の向こうにいる人間とはスキルレベルがあまりにも違う。自分には無理なのだろうかと不安になる。でも、選択肢があるので、希望を捨てずに努力する。しかし気がつくと岐路に立っている自分は周りを見て同様の道を歩くことを強いられる……。結局自分は無力な存在なんだと痛感させられる。この瞬間に途方もない群れを見ている感覚があった。これを社会なんてそんなもんだと一蹴したくはない。自由にするというのは想像以上に難しいことだ。子どもたちが自分の目指すものに対して、どのような努力をすべきなのか、それはどのような環境で成り立っているのかを具体的に教えてあげられる環境が用意できればいいのにと個人的には思う。
強制収容所で生きる人々は満足に食事をとれないので空腹でいる。また、命令によっては徹夜での作業を強いられることもあった。そんな風にして、空腹で徹夜をしたものが憤怒の発作に襲われると体ごとぶつかっていきたいような衝動に駆られるのだと記載されていた。わたしは、瞬時に満員電車で苛立ちを抑えられない人々を思い出した。あの密集地帯で人々が理性的に行動することは不可能だと思う。さっきまで機嫌よく過ごしていた人々が苛立ちを露わにして近くの人に体をぶつける瞬間を何度も見てきた。空腹と徹夜という二つの条件が全ての人に満たされているとは思えないが、パーソナルスペースを失い、体力を激しく消耗する中で自分の尊厳を守るための反射的行動をしている人間はもちろん現代にも存在するということだ。これの怖いところは、電車を降りてしばらくしたら自分がなぜあんな行動をとったのか分からなくなることがある、ということだ。このような恐ろしい瞬間を生み出していることを理解して東京都は本格的に改善に乗り出してほしい。
本書を読んでいてとても印象に残ったのが「涙」は苦しむ勇気を持っていることの証だという一節だった。苦しむ勇気を持つことは本当に難しいことだと思う。仕事をしているとストレッサーと出くわす場面が一日に何度もある。その度にわたしは適切な判断ができているだろうか? 苦しいと無意識的に判断して他人に仕事を押し付けていないだろうか。苦しいことを受け止めて、そのうえで自分がやるべきか、誰かに任せるかを判断できるようになりたいと思う。涙は逃げるために流れるのではない。苦しむ勇気の証なのだ。そして、わたしたちの心はいつだって自由である。自分が意識したように意思決定をすることができるはずなのだ。まずは受け入れる意志を抱くことを大切にしたい。
〇読後のおすすめ
bookyomukoto.hatenablog.com
一度しかない人生だからこそ自分の大切にしたいことを大切にしよう。そう思わせてくれるのが、「夜と霧」そして「エッセンシャル思考」である。わたしが迷ったときは必ず二冊の本を思い出す。
ヴィクトール・E・フランクル みすず書房 2002-11-06