漁港の肉子ちゃん(西加奈子)を読んで考える「ありのままの自分」とは[レビュー]
漁港の肉子ちゃんを読了したので、その感想を投稿したいと思います。
*簡単あらすじ
とある漁港に住む肉子ちゃんは、デブで、不細工で、すぐにダメ男に騙されてしまうような女性。しかし、肉子ちゃんは、そんなこと全くお構いなし。とにかく明るい街の人気者。そんな肉子ちゃんにはキクりんという唯一の家族が存在します。キクりんは、肉子ちゃんとは全く似ていない。可愛いクラスのマドンナ的存在。――そんなキクりんは、お母さんが少し恥ずかしい。かっこいい大人になりたいと思う年ごろ。でも、本当にその人たちって、キクりんが思うようなカッコよさだけで、出来ているのだろうか?
肉子ちゃんとキクりんの親子愛や港町に生きる人たちの息遣いを感じ取れるような作品です。
とにかく面白くて、すぐに読み終えてしまいました!!!
涙が思わず溢れてくるような作品ではないですが、じんわりとした感動が胸にこみ上げてくるような感覚に包まれました。また、読了後は爽やかな風に吹かれているような、そんな爽快感を感じさせてくれる作品です。
物語の序盤は肉子ちゃんの紹介と男性遍歴の紹介から始まります。波乱万丈な人生を独自の世界観と言葉遣いで乗り越える肉子ちゃんのキャラは、すぐに脳内にインプットされることでしょう。どことなく、見たことがあるようなおばちゃんを思い浮かべやすいので、誰か思いついた身近なおばちゃんを思い浮かべながら、読み進めていた人も多いのでは?
本作には個性的なキャラが続々と登場しますが、中でも強烈なインパクトを残しているのが、二宮でしょう。キクりんの追っかけをしている男の子二人の後ろに引っ付いている二宮は中盤以降で登場頻度を急増させています。
二宮の特徴的な行動について記述している箇所を読み進める度に、「あぁ、こんなやつクラスにいたっけな」と思い返したものです、、、
そんな二宮の行動は、ADHDやアスペルガー症候群といわれる症例と酷似しています。じっとしていられず、ついつい変な顔をしてしまう部分とか、正に!ですよね。
そして、肉子ちゃんにもそのような部分が見受けられます。
例えば、(子どもの言い分ではあるものの)キクりんの気持ちを上手く理解してくれないところや、漢字をとにかく分解したがるとろです。何かを分解して考える、というのはアスペルガー症候群と診断される人によくある傾向だと言われています。
「アスペ」って、最近よく使わる言葉なんで、良くも悪くも身近に浸透してきているような気がしますが、「単純に空気を読めないやつ」の代名詞になりつつあるような気がします。
肉子ちゃんは、そのような人物だから、喧嘩した奥さんと仲良くなれた?みうにも優しくできた?ダメ男を信じ続けられる?答えは分かりません。
しかし、読み進めるうちに、私にはある一つの疑問が浮かびました。ラストシーンでキクりんの名前を分解して呼ぶところ。キクりんと肉子ちゃんの親子愛を感じ取ることができる名場面です。このシーンを読んで、「あれ?肉子ちゃんはキクりんの名前を考えているうちに、漢字を分解することが好きになったんじゃ?」と考えたのです。
そう考えると、肉子ちゃんは単に「そういう人」なんじゃ。それでも肉子ちゃんの行動は、アスペルガー症候群やADHDののそれに告示している。どうなんだろう。いや、誰しも、精神疾患などの診断を受けた人だって、結局、その人はその人でしかないんじゃないだろうか。こっちが(主観で)人を見分けやすくするために何かしらのカテゴライズを強いているだけなんじゃなかろうか。その人たちは症例の枠組みで生きているわけではない。その人たちの行動を勝手にカテゴライズしているだけなんだ。
西加奈子がどのような意図で肉子ちゃんをこのようなキャラにしたのか、その真意を知ることはできませんが、「その人らしさ」や「ありのままを受け入れる」という考えを持つこと、というポイントは意識して設定してあるのではないでしょうか。
そういえば、キクりんがマリアちゃんとの関係で悩んでいる際にも、上記と同じような考えが出てきていました。
肉子ちゃんの何事をも気にしない性格ならば、マリアちゃんは教室で孤立することはないのだろうか、というキクりんの疑問。
結果的に、キクりんはクラス内では矢面の立たないように行動し、その後は、二宮との会話の中で、本当は自分がマリアちゃんのことを疎ましく思っていたことを知り、後日、マリアちゃんに対し謝罪しに行きます。
このキクりんの悩みや行動って多くの人が経験したことあるんじゃないでしょうか。孤立している相手を心の奥底(自分でも気づかないような深層心理)で疎ましく思ったり。そんな想いを隠して、クラスで上手くやっていこうとしたり。急に思いついたように本人に謝ったりなんかもして。
どれが本当の自分?ありのままの私って何?
そんな悩みは万人に共通するものなのかもしれません。
私は、本作品を通して、結局のところ、どの瞬間のキクりんも、ありのままのキクりんであり、最終的に仲直りをすることが出来たならそれでいいんじゃないかなあ、と思いました。どれか一つが正解なんかじゃなくて、その瞬間に自分の起こした行動がありのままの自分なんじゃないかなあ、と。
もちろん、社会的な圧力の存在によって、自分の人格や可能性を捻じ曲げられることもあるのかもしれない。そんな時は必死でそれを避けることが一番大事なんだと、何かの番組で見たことがあります。ありのままの自分では流されてしまう時があるかもしれない。「ありのままの自分」を目指すのよりは、「なりたい自分」を意識すると答えが出やすいのかな。「このまま周囲の圧力に従っていてもいいの?」「私はこんな人になりたいの?」「なりたい自分に反してない?」と。そうすれば、ありのままの私ってなんだ、と悩むよりは、自分にとって後々正しかったと思える行動が出来そうです。
キクりんはそれが出来たんじゃないでしょうか。