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死神の精度(伊坂幸太郎)の感想や書評[レビュー]

  伊坂幸太郎の「死神の精度」を読了したので、その感想や書評を投稿しようと思います。

死神の精度 (文春文庫)

死神の精度 (文春文庫)

 

 

 

*あらすじ

CDショップに入りびたり、苗字が町や市の名前であり、受け答えが微妙にずれていて、素手で他人に触ろうとしない―そんな人物が身近に現れたら、死神かもしれません。一週間の調査ののち、対象者の死に可否の判断をくだし、翌八日目に死は実行される。クールでどこか奇妙な死神・千葉が出会う六つの人生。

 

 この説明だけだと何が何だかわからないですよね?笑

 どのような組織なのかは不明だが、この世界には死を判定する死神が存在していて、そこで指定された人間が本当に死に値する存在なのかを、その人と接触することで判定する(調査する)死神がいます。その死神の特徴や対象者の人間が死ぬ時期を表しているものが、上記のあらすじです。

 ちなみに、この本は短篇集です。伊坂幸太郎お得意?の巧妙な繋がりを見せる短篇が6作用意されています。この手の小説は「終末のフール」以来でしたが、面白かったです。

 

 これ以降では、面白かったポイントや考えさせられたポイントを自分なりに語っていきたいと思います。話に出てこない短編が面白くなかったというわけではないので、あしからず。

 

・死神と藤田

 この話では主にヤクザの対立から生じる権力争いが描かれています。

 このような話を伊坂幸太郎が小説にする時に、いつも感じることがあります。それは伊坂幸太郎が考える正義感の小説投与の上手さです。

 この短編では藤田のカッコよさに心底惚れている部下の阿久津が、藤田を正義だと表現し、所属する組みの権力変遷の流れを裏切ってでも藤田を生かそうとします。そんな阿久津の想いを無視するように藤田を死地に呼び出す敵側の手伝いをする死神の千葉。阿久津は千葉(おっさん)の裏切りを強く避難します。しかし、千葉は藤田の死期の関係から、その瞬間は必ず生き延びることを把握しています。そんなことを知らない人間の阿久津は、裏切りを見せた千葉を猛烈に非難します。しかし、途中から千葉を非難することをやめて、「正義は勝つ」と藤田の勝利をひたすら祈ります。

 

 この展開を読んでいると自然に「藤田は勝つんだ!いけ!」と強く願っている自分が存在していました。しかし、普段の自分の考え方なら、ヤクザの抗争がどうなろうが、、、、いや、マンションで銃の撃ち合いなんて勘弁してくれ、って感じで、興味なんて無いし、なんならこんなもの世の中から消えてほしいわけです。もちろん、このような話も小説だから読めるんだ、という考え方はありますし、普段の価値観をまるまる小説内に持込む必用もありません。

 ここで皆さんにお伝えしたいのは、伊坂幸太郎は死神のような異常な存在を通して普段の価値観(正義感)をぼかして小説に没頭させる手法が上手いということです。死神という存在が普段とは違う景色や何気ない日常を特別な視点で見せてくれます。これは、この小説全体に言えることなので、是非、意識して読み進めてみて欲しいです。

 

・恋愛で死神

 この短編で個人的に興味を持った部分は片思いの相手のために死んでいった荻原の想いについてです。それに個人的な恋愛観を乗せて語ります(笑)

 荻原はイケメンです。しかも、彼が働くことで勤務先のアパレルショップの売上が向上してしまうぐらいの。そんな彼には独自の恋愛観があります。それは人を外見ではなく内面で評価する女性とお付き合いしたい、という考えです。実際に、彼は片思いの相手である古川さんに対してもあえてダサいメガネを掛けた状態でアプローチをし続けます。結果的に古川と荻原はお互いに内面を惹かれ合うことで、ほぼ両想いの状態にまで発展します。見事に荻原の恋愛観を満たす女性と同じ気持を共有することに成功したわけです(付き合ってはいませんが)。しかし、彼は古川のストーカー相手に刺されて死亡してしまいます。それは千葉が荻原の死に対して「可」の判定を与えたから。私達(読者、人間)からすれば、これだけ順調な恋を自分の裁量で壊してしまうことは、全く理解出来ない行動です。しかし、死神にはそれが伝わっていなかった。伝わっていたとしても理解ができなかった。

 そのため、残念ながら死を迎えてしまった荻原ですが、死を迎える間際の表情は意外にも清々しさが漂っています。理由は癌で残りの命が短かった。結果的に癌ではなく、好きな女の子のために死ぬことができたから。「最善ではないが、最悪でもない」死に方。

 

 この話を読み終えて考えたことがあります。それが自分の恋愛観にも絡んでくるのですが、、、

 よく人は最高の幸せを感じた時の例えとして「今なら死んでもいい」という表現を使います。正直、私も多用しているので、これを非難する気などはありません(笑)

ただ、私にとっての死んでもいいぐらいの幸せを感じるぐらいの瞬間や時間の一つが、「好きな女の子と明らかに両想いである状態」なので、荻原の死の瞬間とこの自分の考えを重ねて考えてしまいました。明らかにお互いを好いている男女、いつ付き合ってもおかしくない状態。そんな状態ならば何をやっていても毎日が幸せだと私は感じてしまいます。

 片想いの荻原は、(私にとっては)最高の状態にいました。しかも、長い片思いの期間を経てのそれです。気分の高揚が止まらないでしょうね。そんな中、その相手のために死ぬ。

もし!私なら!やっぱり耐えられない(当たり前?笑)。あくまでも「今なら死んでもいい」は比喩であるし、平均寿命が年々高まっている現状で好きな女の子との将来を全く考えないほうが無理があるからです。

 しかし、荻原はそこに「癌によって残り1年の命」という条件がプラスされています。このような条件下ならば、本当に好きな女の子のために死ぬことはそこまでの辛さを持たないのかもしれない。もちろん、それだからこそ残りの命を好きな女の子と楽しみたいと考える人もいると思います。

 こんな考えも千葉がいたからこそ生まれたんだと思うと複雑でした。

 

・死神対老女

 気づけば大きく時間を飛躍して、古川(新田)の将来のお話に移行します。

 この短編での新田は死に対する覚悟が完全にできているようでした。この「受け入れる」という行為は伊坂幸太郎の小説に度々出てきているように思えます。

 人は悲しい出来事を乗り越えた際に成長する。これは近年の臨床心理学におけるテーマの一つです。これはPTG(心的外傷後成長)というキーワードで研究されています。

 伊坂幸太郎はオーデュボンの祈り等の作品でも、この(死を)受け入れるということについて小説内に語りを挿入しています。私はPTGについても知っていたので尚更ですが、この受け入れるという行為や「受け入れる」という響きがとてもしっくりきました。同時に小説を通して、この言葉の意味や日々での活かし方を考えることで、精神的に大きく成長できたという自負があります。伊坂幸太郎がこれを狙っているのかは不明ですが、小説はこのように生きる中でのヒントを与えてくれる有用なものだな、と改めて死神の精度を読むことによって感じることが出来ました。