人がつなぐ新世界を生きたいと思った(新世界を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
物質的に満たされて多くの物がコモディティ化する世界では、単に物を買うことだけでなく、その背景にあるストーリーに惹かれて物を買うことが増える。その背景を作るのは人なので、その人に惹かれて物を買う機会が増えるはず。
僕たちは動画が与えるインパクトをまだ見誤っているかもしれない(動画2.0を読んだ感想・書評)
『テラスハウス』を以下のシチュエーションで観た場合、映像と動画、どちらになるかを答えてください。
①スマートフォンのNetflixアプリで観た場合
②地上波のテレビで観た場合
③クロームキャスト等を使ってNetflixをテレビで観た場合
僕も考えに考えて、①を動画、②と③を映像と分類した。が、著者の赤石ガクトによるとこれらは全て映像に分類される。なぜか。詳細は本書を読んでみてほしいが、簡単な違いを僕がまとめてみたいと思う。
映像は、ある程度まとまった時間を視聴者に求める。一方で動画はスマートフォンの発明によって生まれたコンテンツ携帯で、視聴者の細切れの空き時間の中にすっと入りこんでくる。よく画面を小さくすれば、それは映像ではなく動画になると回答する人がいるようだが、画面ではなく、コンテンツ自体の形式に着目する必要があるのだ。
そう考えると動画が最もインパクトを与えたことは時間を細切れにして情報を凝縮して投入させたことにあるだろう。今までテレビに触れていた人が動画を見て興奮するのとは違う、ネイティブに動画に触れている子どもたちが、どんどんネットの世界に入り込んでくる。そうなると、この情報の凝縮性へのこだわりはもっと強くなってくるだろう。
■動画の三つのウェーブ
先ほど説明したように映像から動画へ、スマートフォンの登場によって多くの変化が生まれた。先ほど映像と動画の違いは画面の大きさではないと説明したが、スマートフォンの登場によって画面を縮小するという進化が生まれたことは間違いない。このような事実を踏まえたうえで、これによってどんな変化が生まれているのか、人と映像(動画)の間にどんな関係性が生まれているのかを考えなければならない。
そんな動画ビジネスには過去に三つのウェーブがあった。
①ファーストウェーブ
2005 YouTube 誕生
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2014 YouTube ブーム
これは検索を駆使して自分の好きなアーティストの動画を見ている時代を指している。
この人の動画だから観たい、という確固たる目的を持っている。つまり愛される良質なコンテンツをしっかり作り上げて、みんなに見せたいと強く思わせる動機付けの部分に一番力を割く必要があった。
②セカンドウェーブ
2015 Facebook が動画対応
↓
2017 早回し料理動画ブーム
ここで最も衝撃を与えたのが検索を介さずに動画に出会えるアルゴリズムが生まれただった。なにかというとFacebookのフィードに動画が流れるようになったのだ。
これまでの常識だと動画に出会うには目的を伴った検索が必要だった。つまり観たいという動機を生み出すことにかなりの力を割く必要があった。しかし、Facebookのフィードには、そのような目的を持っていない人がたくさんいる。それにも関わらず動画に出会う環境が用意されたのだ。
Facebookのフィードをしっかり完璧に確認している人はどれくらいいるだろうか? そんな人は限られた人数しかいなくて、そこには目立つ動画作成が必要になるし、Facebookとしても動画の数を増やしてユーザに露出したかった。そのため大量の動画コンテンツがFacebookに投下され、ファーストウェーブとは異なる新規参入の動画系スタートアップが躍進することになった。
これによって、愛されるコンテンツ作りが大切なYouTubeと仕組化によって良質なコンテンツを素早く作成・投下されるFacebookとの棲み分けが生まれた。そして、後者の立場で躍進を遂げたのが料理の早回し動画だった。
③サードウェーブ
2018 Facebook アルゴリズム変更宣言
↓
?? IGTV、TikTok など新しい動画プラットフォームがブームに
Facebookが唐突なアルゴリズムの変更を宣言した。なぜこのようなことをしたのか。それは、ただ再生回数を稼ぐためだけの動画ではなく、適切にファンから指示される動画、つまり本物の動画を残すという意志を示したのだ。これによってFacebookで再生回数を稼ぐためだけに存在したようなコンテンツは消えさってしまう。一方で確実に良質なコンテンツを作り続けたクリエイターは、そのような変更にも慌てることがなかった。良質なコンテンツに惹かれたファンが存在しているからだ。
結局、再生回数を稼ぐことを目的にした動画は、サムネやタイトルのインパクトだけの勝負になってしまう。動画を見て、コンテンツの内容に惹かれたファンが根付かないのだ。
これからはエンゲージメントがある動画なのかが問われるようになる。適切なコンテンツをぶつけて、ファンの反応を見て、すぐに修正・アップロードを繰り返す。そうやってコンテンツだけでなく、その奥にいるクリエイター自信を好きになってもらう必要がある。これからの時代はコンテンツの量も質も問われるからだ。そしてこれは、動画業界だけの話だけではない。僕が書いているブログやTwitterにだって波及する。これからの時代に沿ったコンテンツと自分の強みをミックスして、自分だから好きでいてもらえる存在を目指す必要があるのだ。
嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見 一郎,古賀 史健)を読んだ感想・書評
出口のない海(横山秀夫)を読んだ感想・書評
全く違った作風なのに、僕はこの小説のことを思いだした。
バカとつき合うな(堀江貴文,西野亮廣)を読んだ感想・書評
たった一人の熱狂(見城徹)を読んだ感想・書評
自分が言いたいことを一番的確に言い表すのはどの言葉なのか。朝から晩までのたうち回って言葉を探し、言葉を獲得するのだ。言葉がなければ人生は拓けない。思考がなければ人生は拓けない。言葉によって人生の突破口は開かれる。言葉を獲得した瞬間、思考は深まり、君の仕事は数十万人、幾数十万人のもとへ確実に届くようになる。
僕もこれに深く賛同したい。自分や世界と向き合い、思考を適切な言葉に導くことは、新しい世界への第一歩だと思う。最近特にそう思うのだが、言葉や図がなければ、人間の思考は深まらない。自分のもちうる能力の分でストップしてしまう。でも、それを必死に表現しようとすると、ある瞬間に自分の今まで見えていなかった世界が拓くのだ。僕自身も自己検証・自己嫌悪・自己否定を繰り返す人間なので、この努力は怠らないようにしたいと思った。
もちろん彼は自分自身だけでなく作家とも真剣に向き合っている。大事なパートナーとして真剣に向き合ってきたからこそ、大きな成果を残すことができているのだ。そして、彼には作家への大きな愛と尊敬がある。こんな一節があった。
作家の内面からは、マグマが煮えたぎりながら噴き出している。文章を書かなければ、自分はいつまで経っても救われない。やむにやまれず原稿を書き、書くことによって内面で渦巻く葛藤と辛うじて折り合いをつける。この世で生きるためのバランスを取る。そんな作家たちと、僕は40年以上にわたって編集者として格闘してきた。
これだけの気持ちで執筆と向き合える作家に対する羨望もあるのだが、その作家のために全てを注ぎ、全力でぶつかる見城徹の気概にも憧れる。彼は、お互いに傷口を突き合わせながら向かいあうからこそ良い本ができるし、それに携わった自分のキャラも立つのだと言う。
自分の身を切らず、自分の身を痛めずして、安全地帯で身を守りながら「キャラを立たせたい」と言ってもどだい無理な話だ。
「見城徹という男はずいぶん生意気だが、刺激的な編集者ではある」。そう作家に理解され、他の編集者から頭を一つ二つ抜け出すためには、身を削りながら、涙がこぼれ落ちる切ない作業を重ねなければならない。相手と決裂し、物別れに終わるリスクも引き受けながら、僕は作家とがっぷり四つに組んで原稿を磨き上げて来たのだ。
君は職場で目立つ人を見て「あいつはいいな」とうらやましく思うかもしれない。だが、そういう人は誰にも見えないところで魔物のような不安に夜な夜なうなされ、自傷行為のように身を削る努力をしているものだ。
身を切り、血を噴き出しながら命がけで仕事をしてこそ、初めて圧倒的な結果が出る。人人から認めてもらえる。「ここに〇〇あり」と皆に気付いてもらい、キャラクターとブランドを確立するためには、自らの身体から噴き出した血で旗を染め、その旗を高々と掲げるしかないのだ。
痺れる文章だ。分かっているつもりでも、ないものねだりばかりして、努力を怠ってしまう瞬間はある。そういう自分を寝る前に振り返って、こんな卑小な自分とは今日でお別れするのだと、身を切るような思いで誓う。そんな僕の毎日が全く無駄ではないのだなと思えた。少なくとも成功者は、このような努力を経験しているし、何なら僕はもっと頑張る必要があるのだと励まされた。
見城徹は、しっかりと向き合う。自分の弱さにも、相手のスケールを突き抜けるような人間性に対しても。彼は、妥協することをとても嫌う。それ以上に、それらを丸々呑みこむような生き方や仕事の方法を好む。妥協して生み出した世間一般の線表に則った考え方よりも、お互いの内臓をぶつけ合って生み出される、全く新しいものを好む。その象徴として、見城徹はキラーカードという言葉を多用する。キラーカードは、自分が持っている武器のようなものだ。お互いがキラーカードを持ち合うことで、他にない素晴らしい仕事が可能になる。ただ羅列された人脈とは決してできない仕事ができると考えているのだ。
見城徹は、いくつもの本を読み、自らの死生観の中で必死に仕事をすることで、現実と自己観念の狭間で闘う意志のようなものを見事に獲得していると思った。そんな記述を引用して、締めたいと思う。
755で僕に「頑張れば夢はかなうでしょうか」と質問してくる人がいる。こんな質問をされたところで、「かなうでしょうね」とでも答えるしかない。こういう言い方をしては申し訳ないが、「僕は夢に向かって生きています」という類の物言いには吐き気がする。
現実は矛盾だらけだ。ピュアな夢なり野心だけで生きられるほど、この世はきれいごとで満ちあふれてはいない。矛盾によって板挟みに遭いながら苦しみ、七転八倒しながら、それでも匍匐前進する。
〇読後のおすすめ
「たった一人の熱狂」を編集した編集者の書籍である。編集者は著者から一番学ぶと述べていて、実際に見城徹が憑依しているような記載も見受けられた。ぜひ確認してみてほしい。
ポイズンドーター・ホーリーマザー(湊かなえ)を読んだ感想・書評
語りによる記憶のねつ造を如実に体験できる小説。一方で、普通に読んでいるとそこまで違和感を感じないことも本書が傑作として語られる一つの理由なのだろう。