このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法(北野唯我)を読んだ感想・書評
死ぬこと以外かすり傷(箕輪厚介)を読んだ感想・書評
民衆は「正しい情報」よりも「楽しい情報」を求めている。これは江戸の瓦版からのころからの真理だ。おもしろおかしく、刺激的な言葉を吐く講談師や噺家は、民衆から喝采を浴びる。「正しい情報」をありのままに伝えたところで、人々は幸せにはならない。そして「正義」ほど曖昧で、一方的で、暴走しやすいものはない。
僕はいつもユーモアを交えて話すことを意識している。しかし、たまに、自分の伝えたい世界の真実が優先してしまって、相手のニーズに沿っていないようなときもあると自覚している。これを見て改めて実感した。人の喜怒哀楽を読み取り、適切な笑いをもって相手を説得する技術の大切さについて。
少し話を戻すと、やはり人は小さな欲求の連続の中で生きていて、今はスマホが自分の欲求を満たすアプリで溢れているので、親指で動かせる世界から中々離れることができない。つまり、スマホは飼い主の欲しい情報だけを与えている。箕輪さんは、バカはますますバカになる、と本書で一刀両断している。
それでも、箕輪さんはそんな人たちに情報と行動する勇気を与えたいのだと思う。だから著者と共に血を流してでも本を作り上げる覚悟を持っている。当たり前だが、目の前にいる上司に向かって仕事しているのではない。その先にいる読者のために本を作っている。編集者は、著者や上司ばかり見ていてはダメで、彼らとは共犯者になって最高の本を作り上げる必要があるのだ。
そのためには当然、社会や社内の通年(上司の意向)にばかり振り回されていてはいけない。間違っていると思うことに対しては、間違っていると言うことが大切だ。そのような行動を避けていると本当に進むべき道には戻れなくなる。きっと脳の奥底にある無意識の部分まで、そのような回避行動が習慣として染みついてしまうのだと僕は思っている。
このように見るべき対象や行動の意識について、当たり前だけど皆ができていないことを知った。だが、これだけでは今後も編集者として成功できるとは限らない。ただ本を作るだけでなく、企画することに移行している編集者として職務を全うするには、企画する力を養う必要がある。
まずは何かひとつのことで突き抜けることだ。軸足のないキックボクサーは、強い蹴りを繰り出せない。そのために誰よりもそれについて考え行動すること。そして、依頼・提案されたことは必ず引き受けて、誰かにお願いしたいというときに真っ先に頭に浮かぶ人になること。企画に呼ばれなければ編集者としての仕事は真っ当できなくなる。
以前に読んだ本で試行回数の大切さが説かれていた。自分が思い描く完璧な状態になってから行動する人は結果的に成功率が低いというのだ。そして、誰かの印象に残りにくいのだと言う。自分が描く完璧な状態が、周りの思い描く求めるものと一致するとは、そもそも限らない。しかも、自分がそのことを隠していると、それ自体を認知してもらえない。その人は、その人の人脈の中からあなたを選ぶ、もしくは思い出すという行動をとった後、依頼するわけで、自分からアピールしないとそもそも対象にすらなれないかもしれないのだ。そうであれば、まだ不完全かもしれないけれどアピールして挑戦する。そこで上手くいきそうであれば必死で努力する。そこで成功すれば一つの実績ができて次につながるのだ。
そして、何かに挑戦するのであれば、そのプロセスを発信する方がよいだろう。全く同じことを成し遂げたとしても、そこにプロセスができるだけで、ストーリー性が生まれて人の目を惹きつけることができる。これこそ企画する者に求められる資質だろう。
だから、どんどんアピールして、どんどん行動して、どんどん発信すべきだ。そうやって箕輪さんも大物との仕事を獲得して、自分の名前を世間に売っていった。
大物の周りでよくある、あの人は○○で忙しいから仕事を受けないよ、という言葉を信じてはいけない。相手も人間なので感情があるはずだ。相手に憑依するくらい相手のことを想像してどうやったら提案を受け入れてくれるのかを考え抜けばいい。そして、それを誠意をもって提案するのだ。大抵のうまくいかないことは相手の気持ちを考えていないことに起因する。学生時代に徹底的に周囲の人間の行動分析をしていたという箕輪さんらしい突破方法だと思った。
本書は、編集者に憧れる人にはもちろん。それ以外の人にも通じる素晴らしい書籍だと思う。なんなら仕事に限定されない、自分らしく生きるための力になる本ではないだろうか。意外にさらっと読めるので、ぜひ購入なさることをおすすめする。
〇読後のおすすめ
途中の試行回数の記述は本書で学んだことを書いている。
人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている(ふろむだ)を読んだ感想・書評
最初の例では錯覚資産が良い方向で働いているケースを述べたが、悪い方向に働くケースがあることも、この図から確認することができる。しかし、人はなぜこのような思い違いをしてしまうのだろうか。その理由として以下の三つが述べられていた。
①理解しているつもりで直感に従ってしまっているから
②正しいことよりも直感に従う方が気持ちいいから
③周りもハロー効果に従っているので、そのほうが保身がきいて楽だから
①は完全に自覚がないケースになる。よくハロー効果には騙されないという人がいるが、そんなことはない。人は必ず脳が生み出す錯覚にハマっている。そうでないと直観的な判断ができなくて不便だ。全てのことを意識的に判断していたら、一日に10万回以上の判断を実施しているという人間は、体力がもたなくなってしまうだろう。
②は、場合によって自覚があるケースだと思う。どちらにせよ、この理屈は納得できるものがある。変に考えて答えを出しそれを待っているよりも、直観的に答えてしまった方が気持ちいいし不安感が少ない。もちろんこれは意識的にやっているケースだが、無意識的にやっている場合もそうだ。脳はこのような直観的な判断を促進するために無意識的に記憶を操作したりする。これについては後述する。
③もよくあるケースだろう。周囲の人を見る目と自分の見る目、そして相手の行動なんかを意識的に見るようになれば、どこにどんなハロー効果をもたらしているのかが、なんとなくわかるようになるのではないだろうか。
このような錯覚資産は、使い方を考えれば非常に役立つ。なぜなら、錯覚資産があると周囲からの評価が高く見積もられるので、より高いステージで活動することができるので、成長環境が手に入りやすいからだ。実は能力で見るとイコールなのに、錯覚資産で高く見積もられた人の方が、より高い成長環境を手にしやすくて、その人は成長ステージに挑み続けることができるので、成長速度がさらに上がるのだ。結果的に更なる錯覚資産の獲得につながるし、より高くステータスが見える要因にもなる。
また、世界は複合的な要因に晒され続けている。いつだって成功しているような人だって、常に成功することが約束されているわけではない。もちろん、そこには複合的な要因が生み出す「運」も影響している。成功している人は、そのことをわざわざ口に出さないだけだ。
つまり、「実力」で勝負しているつもりだった世界が実は、「実力」×「運」×「錯覚資産」で成り立っていることに気づく。
この「運」も錯覚資産を持つことで確率を上げることが可能だと本書には記されている。なぜなら、錯覚資産を活用して一度成功すると、大きな成功を手にしたことによる錯覚資産が生まれるので、それに魅かれた有能な人が集まってきて、次のプロジェクトの成功確率を自然と上げてくれるからだ。
そのためとりあえず大きな実力をつけて、錯覚資産として活用できそうな機会(もしくは参加して成功することで錯覚資産として活用できるようになる機会)に参加し続けることで、次第に周囲から認められれば、次に新しいことに挑戦する際には運の要素も強化されているという仕組みだ。なので、とにかく挑戦し続けることだ。成功している人(錯覚資産を持っている人)は、とにかく表に出る機会が多い。そして、錯覚資産が育つ、もしくは一度成功した段階で次に大きな勝負を仕掛ける。そうすることで周囲から見える自分を育てているのだ。
では、なぜこのような錯覚資産に人は簡単に騙されてしまうのだろうか。
こんな場面が身近にないだろうか。とある有名人について噂をしている人が「彼は間違いなく失敗する」と言ってネガティブな意見をつらつらと述べているような場面。しかし、結果的に噂された有名人が成功を収めたときに、噂していた人が手のひら返しで「彼は成功すると思った」と意見していたりする。これは、記憶の書き換えが起こり、それに伴って矛盾する記憶が書き換えられていることによって発生する。また、脳は記憶だけでなく、判断ロジックに影響するものも変えてしまうので、自分ではその意見の手のひら返しに気づくことが難しい。これを後知恵バイアスという。
僕はこれについて知ったとき「ふざけるな」と思った。そんな風に自己都合で生きていたら大事なものを見失ってしまう人が多発するのではないかと思った。そして、どこかに大きく目標を書くことが大切にされる理由もわかった。きっと、どこかに一貫した意志を書き記さないと人の意見はそれだけ簡単に変わってしまうのだ。
じゃあなぜ、こんな風に人の記憶は置換されてしまうのか。
それは人間の脳が情報の一貫性を求めるからだ。そして、その結論を急がせようとする性質がある。これはあくまでも僕の推論だが、情報に一貫性がなく考え続けなければならない状態は、脳や精神にとって大きな負担になっているのだと思う。だから、自分の中で結論が出たときに落ち着く人も多いのだ。脳はそのような自身の負担につながることを避けようとする性質があるのだと僕は考えている。
その結果、以下のような行動をとってしまう。
①デフォルト値バイアス
人間は判断するのが難しいと考えたとき、デフォルト値を選びやすい。例えば、彼女のいる男性に別の女性がアプローチした場合、彼女の方を少し高く見積もる傾向があるということだ。一方で、人は意図的にデフォルト値を選んでいると思ってはいないので、別に選択の原因があると考えてしまう。つまり、無意識にデフォルト値を選んだうえで、全く関係ないことを考えるという二重の錯覚に陥ってしまうのだ。
難しい判断に迫られていると感じたときは直観に従わずに考えることが大切だし、その際にはデフォルト値を少し低く見積もって考えることが大切になるということだろう。
②利用可能性ヒューリスティック
上述したとおり脳は結論を急ぐ。そのために必要な情報を脳内から廃棄もしくは見えなくしてしまう。広告でよくある「実に〇〇の85%が実践中」のようなフレーズ。これは一見すると高い数値であるように見えるが、全体の数値を提示していないので、実態としてどれだけの人が実践しているのかは見えてこない。それでも人は、このような数値を直観的に信じたりする。
他にも疑問の置換も無意識的に発生したりする。例えば「〇〇は成功するのか?」という疑問を「〇〇のことが好きか?」と置き換えて人は考えたりする。次はそれにも関与する行動だ。
③感情ヒューリスティック
好きなものはメリットだらけでリスクがほとんどなく、嫌いなものにはメリットはほとんどなくリスクだらけだと思い込む認知バイアスを指す。一見してかなり理不尽な認知バイアスだと思わないだろうか? でも、多くの人は自然にこの行動をとっている。それが②で述べた内容になる。あの状態で対象が嫌いであれば、人は成功しないという結論づけをするだろう。
④認知的不協和
これは以前に別の書評でも述べている内容だ。
例えば、平社員が「出世には興味がない」と言う場合、本当に会社の理屈で出世した場合に思った仕事ができなくて言っているひともいるが、自分がそのような立場にいないことへの嫌悪などが心の奥底から漏れ出て、そのように嫌っている人もいる。実際は出世した方がよいことが多いかもしれないのにである。
これを本書に倣って図にすると以下のようになる。
このように脳は、自身の考えと世間の認知のズレを埋めようとする。これを認知的不協和という。これを利用して相手に決断を迫るテクニックもあるのだが、それは上述した書評を参考にしてほしい。
これまで錯覚資産を利用して成長する理屈と、なぜ錯覚資産が生まれるのかを記述してきた。本書を読むともっと分かりやすく多くのことが書かれているので、これは実際に読んでいただきたい。そして、これからは錯覚資産を利用した表層的な自分を鍛えると共に、自分や周囲で発生する思考の錯覚に気づくことができる内的な目を養う必要があることを理解いただきたい。
最後に僕が最も気に入った一節を引用して締めたい。
しかし、真実を語れば語るほど、あなたの言葉は勢いを失い、魅力を失い、錯覚資産はあなたから遠のいていく。
大きな錯覚資産を手に入れたいなら、「一貫して偏ったストーリー」を語らなければならない。
バランスの取れた正しい主張などに、人は魅力を感じない。
それでは、人は動かせない。
「シンプルでわかりやすいこと」を、それが真実であるかのように言い切ってしまえ。
本当は断定できないことを、断定してしまえ。
人々が党派に分かれて対立しているなら、あなたは、自分がどちらの党派であるのか、旗色を鮮明にしたほうがいい。
裁判官になろうとしたら、負けだ。
原告側にしろ、被告側にしろ、あなたは、弁護士にならないといけない。
どちらに味方するのかを表明し、見方を擁護する証拠を集め、見方を擁護するロジックを組み立てるのだ。
そうすれば、あなたの主張には、思考の錯覚の魔力が宿る。
その主張は多くの見方を魅了し、ハロー効果を創り出す。
そして、それは、大きな錯覚資産に育っていくのだ。
〇読後のおすすめ
森に眠る魚(角田光代)を読んだ感想・書評
愛するということ 新訳版(エーリッヒ・フロム)を読んだ感想・書評
たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。誰もがこんな幻想を抱いている。——私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それはたんなる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、「自分の」意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人とちがうのだと思いたがるが、そうした欲求は、ごく些細なちがいで満たされる。……
僕の周りで言うと結局のところ出会いのドラマチック性や対象の些細な違いを誇示する部分で、このようなエゴが出ている機会は多いと思う(恋愛の会話自体が嫌いではないので悪しからず)。資本主義によって同じ機会や物が与えられることこそ平等なのだと思うようになった結果、こうした部分で差異を生もうとしているのだと本書には書かれていた。なるほどと思った。それと同時にとても悲しくなった。結局、他人とこうやって比較したところで、比較対象かつ自分が保有しているものは変わらないわけだし、そこに深まりが生まれなければ、比較できなくなったときや負けた時に虚無が生まれるだろうと思ったからだ。やはり、大事なのは愛する技術を学び、「対象」と「行為」の両面から愛を深めることである。
さて、愛とは能動的なもので、自ら踏み込んで与えるものである。能動的とは外的に何か影響を与えているということではない。なぜなら、外的に強い影響を与えている行為でも動機が受動的で、何かに駆り立てられているかもしれかいからだ。逆に瞑想している人は自分に耳を傾け内面的に高度な活動をしている。これはすごく能動的な活動だろう。このように自ら相手を愛することが大切だ。言葉にするとシンプルすぎて驚いてしまうが、これが意外に難しい。本書にも記されているが、性欲は他の欲求と結びつきやすい。性欲が何かに結びついて、それが愛の欲求だと勘違いしてしまうようなケースは、一見すると能動的に動いているようで受動的な行為に終始する。そうではなく、本当に相手のことを思いやって愛すること。そうやって心から相手を信頼し愛することができれば、その人は自分に本当の信頼と愛を返してくれる。これは恋愛に限らない「愛する行為」の技術だ。
しかし、自分から相手を愛することはかなり勇気がいる。なぜなら、相手から愛される保証がない状態で、こちらから愛する行為を見せることは恥ずかしいし、場合によっては失敗して傷つく可能性があるからだ。そんなことを思っているとこんな文章に出会った。
信念と勇気の修練は。日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
僕は、この文章に強く心を打たれた。正直、僕の疑問がすべて解消したわけではないし、これから努力することがいっぱいあるけれど、進むべき道を見つけることはできたと思っている。あとは実践だろう。
〇読後のおすすめ
恋愛における圧倒的な経験がしたいけれど数をこなす方法がわからないという方向け?
タイトルと中身でギャップがあったので驚いたが、このような恋愛観に触れてみるのもよいと思う。