■こじつけでもいい、僕たちは理由が欲しいだけだ
第二のブラックライダーと呼ばれた、ジョアン・メロヂーヤ。途中から彼の起こした行動によって物語が大きく動くのだが、あの戦争を3つの観点から見ることができると僕は考えている。この三つの観点とは、それぞれの立場を示すものであり、なおかつ彼らの意志と行動理由を示すものである。
①ジョアンの視点。蟲の感染を感知することが可能な彼は、そこで感染者を殺さねば当人にも周囲の人にも苦しみを生むと考え、他人の魂を救うために自分の魂を汚す。物語中でこのようなフレーズが何度も出てくるし、ここに彼の強い意志が感じられる。
自分を好きになるために人が嫌がってやらないことをやる。それは人を殺すことに直結するし、彼自身も大きな苦悩を抱えていることは明らかだった。やるしかないからやる理由を作っているが、どこか破綻しているカオティックなところに彼の使命感を僕は幾度となく感じた。
②ジョアンに寄り添う人。彼らは大凡二つに大別される。親しい人をジョアンに殺された人と蟲の恐怖から逃れたい人。どちらもジョアンを憎んだっておかしくない存在だ。
それでもジョアンを慕うのは、ジョアンがやらなければいずれもっと苦しい痛みが亡くなった人を襲っていたという仮定や、その痛みが自分に向かうリスクを下げたいという期待があるからである。
どういう状態に向かおうと苦しいものは苦しい。
ここで一つの希望は、悲しみを背負うと宣言するジョアンという存在に、思い悩む自分の負の感情を重ねることができることだと思う。みんな苦しい。でも、それを本心から理解し、背負うことを厭わない人は少ないのである。
人が特別な存在と認められるのは結果を残した時である。でも、その結果は実態を伴っているとは限らない。たぶん第一情報を受ける人は、その実態のある結果に納得しているのだろう。第二情報を受け取る人は、それを伝える人を信頼しているか、そのような結果に飢えているのだろう。
本書の中でジョアンを信じる人のコミュニティ形成はこれに倣っていて、非常に考えさせられた。結局僕たちは、それを伝える人を信用しようとしているときがあるのだ。
③ジョアンと敵対する人。これらは②の逆説だと言えるだろう。
つまり経験したことは同じか、それに等しい。でも、そこ経験をどう捉えるのかにおいて、彼らの考え方は根本的に異なる。親しい人がジョアンの手によって殺められたという事実を中心に解釈するとこのようになるのだろう。でも、これを否定することはできない。事実は事実として存在しているのだから。
どちらが正しいのかは分からない。ただ、僕たちは一つの経験から様々な感情を呼び起こすことができるという事実が明らかになった。それなら僕はどうするのだろう。そう考えさせられる。
■正義の道
三者の視点で、それぞれ物語を見ていると、僕たちは何を信じればいいのか分からなくなる。
例えば、バードたちは、原因は蟲なのに、蟲が本当に人を殺すのか確証がないと主張し、蟲の感染を理由に殺して回るメロヂーヤに哀しみの理由を押しつけているようにも思える。バードはそのことをメタ認知しているが、動き出した船を止めるつもりもない。そこには生への諦念が滲む。
バードの苦悩を知るうちに僕はこう思った。
正しいことが正義ではなく、信じられることが正義なのではないか。
僕たちは大切な軸を常に持つ必要がある。なければ、何を信じて、どう動くのか、都度信じて後悔を生む行動が連鎖してしまうかもしれない。
クリスチアーノが壁に描いた絵のように自分の中にも様々な人間が存在する。しかし真ん中には聖人が存在しなければならない。自分にとって大切なことと違うものを見分ける力。そして、そもそも大切なものが何かを決める力。これらを持ち、人のことを主体的に愛することができる精神を持つのだ。
このことを常に忘れないことだ。僕たちが信じるべきは、僕たちが持つ生きる軸に沿った事であるべきだ。そして、そこから事実を読み取って検証する力を生きていく中で養う必要がある。
■心に刻む別れ
僕は通勤中にラストシーンを読んでいて、思わず涙が溢れそうになった。
ありふれた日常の中に、いつも存在する悲しい別れの名残り。
良い別れは辛いのだと思った。なぜなら、その人はずっと心から離れないから。むしろ多少の憎しみを伴うほうが楽なのかもしれない。だから人は何かしら否定的な理由をつけて別れようとするのかもしれない。でも、それは短期的な見方だと思う。もしも、本書の二人のように長い時間を越えて繋がる瞬間が訪れたとき、僕たちは良い別れを肯定し、涙するだろう。