僕たちは魔法のような世界をコンピューティングによって生み出していく(魔法の世紀を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
本書の導入部に以下のような記述がある。
……現在の僕は筑波大学に所属する研究者であると同時に、メディアアーティストとしても活動しています。しかし、僕はこの二足のわらじを履く中で、一つの悩みを抱えてきました。それは、自分という人間を語る「軸」はどこにあるのかという悩みです。僕の中で、研究と表現は不可分のものです。しかし、そのことを他人に説明する言葉を、なかなか見つけることができませんでした。単に自分の各々の研究を説明するだけならば、あるいは自分の作品のコンセプトを解説するだけならば簡単です。ところが、その二つがどう結びついているのかを説明することは、困難なのです。あるときから、僕はこの問題を解決するためには、技術と芸術の両方——つまり、ラテン語の”Ars”の現代的なあり方を表現するメタ的な視点が必要ではないかと考えるようになりました。しかもそれは、アートと技術を包括するものでありながら、どちらとも異質である必要があります。それこそが、この「魔法」という概念であり、そして「魔法の世紀」というパラダイムなのです。
複数の前提の話が欠落された引用なので、ここで落合陽一が語ろうとしていることのすべてを理解することは困難だろう。しかし、ここで僕が最も強く感じたのは、彼の芸術と技術に関する熱量であり、彼のマインドなのである。そこから生まれた「魔法」という言葉に僕はとてもワクワクした気持ちで本書を読んだのだ。
■映像の世紀から魔法の世紀へ
20世紀は映像の世紀だった、と落合陽一は語る。エジソンによって生み出されたキネトスコープは、より大衆向けに改良されてシネマトグラフへと進化を遂げる。これは今も映画館で使用される映写機の基になった機械だ。
この機械の登場が意味することは何か。それは大衆にメッセージを届けることが容易になったことを指す。
政治的なメッセージ性を持つ人間は、迷わずにこれを利用した。彼らの声やジェスチャーが、彼らの肉体を越えて届けられた。今まで噂や書面でしか見られなかったものが、ビジュアル的に確認できるようになったので、彼らの意見はより実を伴って広まるようになったと言えるだろう。
しかしこれは、逆に言うと一方的な情報の受け取りでしかないとも言えるだろう。20世紀はこの文脈の中で進化を遂げてきた。スマートフォンも移動性と容易性において進化を遂げた結果と言える。それにスマートフォンの登場自体は、1980年頃には予言されていたことも本書に記されている。SNSの登場によって情報の発信と受け取りはN対Nになりつつあるとはいえ、映像を中心とした進化を遂げる文脈の中にいたことは大きく変わらないと考えられるのだろう。
これからの時代はもっと大きな変化が起きる。まるで魔法のようにコンピュータが様々なことを実施してくれる世界になっていく。
魔法は、それができる理由を詳細に説明しない。アニメで魔法が発生する理由の詳細を求めたことはないと思う。これからのコンピュータも同様に、理由を説明しないし、人によってはそこにあることを意識しない存在として、多くのことを成し遂げると考えられる。今のスマホネイティブを超越したスーパーネイティブの登場だ。
最近、ソードアートオンラインというアニメを観ていて思ったことがある。いくつかあるシリーズの中で放送中のものは、主人公が人工知能によって生み出されたバーチャルリアリティの中に飛びこんでいくことによって物語が生まれている。
そこで生きる人々(人工知能)は、法を犯した際にシステムエラーで体が制御されることを当然と考えている。これが現実世界で発生したら大変だ。何かの病にかかったのか、もしくはシステムを管理するものによって意図的に体が制御されていることを意識せずにはいられないだろう。しかし、彼らはそんなことを意識しない。ただ法によって自分の行動に制限がかかったという事実だけを意識する。
これこそスーパーネイティブだと僕は思った。
■心を動かす計算機
落合陽一のようなメディアアーティストは、技術的な努力と芸術的な努力の両面を強く求められるという。そこで、考えなければならないのが、コンピュータは心を動かすことができるのかというテーマになる。本書では「心を動かす計算機」と呼ばれている。
そもそもこのようなテーマを考えるのは、人が機械に対して感動して涙を流すことが滅多にないと想定されているからだ。数年前にリリースされたペッパーくんは、まさしくここを市場として狙ったのだろうと推測できる。他にもAIによる小説執筆の取り組みのように、人がクリエイティブに生み出してきたコンテンツの領域に機械が参入することは、今後のそう遠くない未来に実現されるだろう。
それでも人が機械に対して感動することを想定するのが難しいのは、人と機械に心の距離感があるからだろう。人は媒体とコンテンツを分けて考える。例えば、感動を覚えた記事があるとする。人は、その記事の中身はもちろんのこと、この記事を執筆した人や取材背景に想いを馳せる。そして、それぞれを理解したところで、それらを一つの一貫した情報として理解すると僕は考えている。
この一貫した情報の中に機械による創作が、これまでは考慮されてこなかった。なので、人は異物なものとして考えてしまい、心が揺さぶられなくなる。しかし、メディアアーティストは、この壁を取り払わねばならないのだ。
このようなテーマになると先ほど取り上げたソードアートオンラインは、実は色んなことをテーマに含んでいたりする。
最近放送している回では、主人公が現実世界での記憶を一部操作された状態で、人工知能だけで生成された世界に飛ばされるのだが、彼はその状況に適応し、最終的にはそこに生きるNPCを普通の人と同様に扱うようになる。
当たり前のようにそこに存在するようになり、それが今まで見てきた人と何ら変わらない認識で接することができるものだと理解されたとき、人はあたかも、それまでそうしてきたかのように振る舞い接するようになるのだと思った。
これから生まれてくるスーパーネイティブは、人工知能との距離感に関しても僕たちが見せないような動きをするかもしれない。
つまり、人が機械と心の距離を取っているのは、そういう役割分担を共同幻想として人が持っているからで、そもそも役割ができているのは、人がそのように設計しているからに他ならない。これから落合陽一のように融合を図ってくるメディアアーティストが出てきたときに、人がどのような心理変化を起こすのか考えていく必要があると思った。
■プラットフォームが生み出す文脈
僕たちが生きる世界には、サービスを包括的に提供しているプラットフォームが存在する。代表格は、最近様々なところで聞かれるGAFAがあるだろう。
そのプラットフォーム上で人々は自分を表現しているが、それはあくまでも、そのプラットフォーム上での表現になることを念頭に置く必要がある。
芸術は、このことを意識した作品が常に生まれていたみたいだ。例えば、SNSの流行によって生まれた個人の意見の発信と、一方で自分がタイムラインに選らばないような人は、意見が抑圧されたりする現状を嘆いたとすれば、それは今世の中にある文脈上から生まれた芸術と言える。一方で、そんなことにとらわれないで原初的な感動によって挑み続ける存在もいる。落合陽一の目指すアーティスト像は、そこにあるのだと本書を通して感じることができる。
この感覚はビジネスにだってあるだろう。例えば、西野亮廣は、さんま御殿に出演して活躍しても、それは明石家さんまの手柄にしかならないのだと述べている。これこそプラットフォームが生み出す文脈上での努力を端的に表しているだろう。だから、彼はそこで努力した結果、自分のプラットフォームを作ることに注力した。
プラットフォームとは、同調圧力によって色んな想いを呑みこんでいくものだ。西野亮廣の一件だって、冷静に考えれば何も悪いことではない。各芸人が、自分の理想の番組を作れるとしたら? そう考えると違和感があまりないと思う。考えずにその場にいることは簡単だ。でも、それを考えて、打ち破ることができれば、突き抜けた存在になることができる。むしろ、今は、文脈の中で人がどんなことに疑問を感じているのか、どう生きているのかを考え続けて、それに対するアイデアを生み出していくしかないのだ。西野亮廣は、ある意味、当然のことをしたのだと思っている。
■デジタルネイチャーの時代へ
正直なところデジタルネイチャーの考え方を僕が全て理解できたとは思えない。これは僕に限らず多くの読者の方がそうだと思う。そこは今後の彼のプロジェクトなどを通して理解していく部分になるのだろう。ここでは、最後にこの考え方の一端だけでもまとめておきたいと考えている。
このデジタルネイチャーで軸になる考え方は場の制御だと考えている。では、場を制御するとは何なのか。
今までコンピュータを使って生まれたサービスは人が制御することを考えていた。それは人が使うものなので、人に理解できない要素は不要であったからだ。
例えば、音楽のデジタル化によって、人に聴こえないとされるヘルツ帯は削った状態でリリースされるようになった。その帯域を削ることで要領を削減することができるし、それができれば通信トラフィックの渋滞を緩和することが可能になるからである。
このように人は、人にとって不要なものを削ってデジタル領域で利用してきた。しかし、人以外からすると利用できる領域が、人にとって不要という理由で削られているかもしれないことを上記の例は示している。
例えば、人からすると無音の動画があるとする。音がないので、人は視覚的に楽しむしかない。だが、ここに超高性能のカメラと、そのカメラが拾った画の振動から音を生成する機械があればどうなるだろうか? 実際にこのような動画から音を拾うことに成功している実験があるらしい。音とは空間の振動によって生まれているものなので、画面から人には見えない揺れを拾って、それを音に変換しているらしい。驚愕だ。
ここから得られる教訓がある。それは機械にしか分からないコミュニケーションがこれから生まれるかもしれないという事実。そして、そのコミュニケーションから最終的に人にとって便利なサービスが提供される可能性があるという事実だ。
場を制御するとはこのような考え方から生まれている。これまでは人目線で機械を見て、人と機械を分離してサービスが生まれていたが、これからは人すらも場に存在するものとして見て、そのうえで最適なサービス設計がされるようになるのだ。
もしかしたら、今後目にするものは、今までと違い実態を持っていないかもしれない、もしかすると3Dプリンターによって生み出された終わりない植物かもしれない。そんな風に想像するだけでもワクワクするし、やはり機械との距離感を感じて少しの不安が募ってきたりする。
人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在すると考える新しい自然観、そしてその性質をデジタルネイチャーと落合陽一は呼んでいる。このブラックボックスで多くのことが成される世界こそ魔法の世紀だ。
彼にはもっと多くのことが見えているのだろう。それは、僕たちが圧倒的な努力でインプットして、思考性を高めるアウトプットを続けることで見えてくるものかもしれない。それでも現状見えていない僕は、やはり少しの不安を拭えない。人が持つ強みがよくわからなくなるからだ。
それに対しても落合陽一は一つの言説を持っている。人が持つ強みは、ビジョンとモチベーションなのだという。確かにAIが隆盛を極めている今でも言われていることだ。それこそ原初的な取り組みをできるのが人の強みで、熱いモチベーションを持ってそれを世の中にぶつけることができるのも人の良さだ。だから僕は自分の軸やビジョンを持つことにした。でもそれは、何歳になれば何円貯めてといった人生計画ではなく、僕が僕らしく生きるためのビジョンだ。このブログもそのビジョンに含まれているので、このまま努力を続けたい。