嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え(岸見 一郎,古賀 史健)を読んだ感想・書評
人生に少しの勇気を与えてくれる本だと思う。人生には、この少しの勇気がとても大切で、人間は多くのチャンスを勇気の不足で失っている。僕も多くのチャンスを失ってきたし、もっと色んなことができるような気がしている。そんな期待感がある一方で、自分自身に納得できず、他者にないものねだりするような時間が続いてしまう。あなたも、こんな状況を抱えていると思うのであれば、この本はとても良い。
本書は哲人と青年の対話によって進む。青年はとても卑屈な人間に見えるが、世の中の多くの人は、このような卑屈な思いをその胸に抱えているのだと思う。これは著者から読者に向けたプレゼントだと思う。このような形式をとることで自分事として、展開を読み進めることができるからだ。そして、このようなステレオタイプの人を主軸に置いてくれると、どこかお高く見える心理学の世界にも手が届くように思える。
哲人は、そんな青年の悩みに対してアドラー心理学の観点を用いながら、話を聞く。ここで悩みを解決しないことがポイントになるのだが、それはおいおい説明できればと思う。
最初に青年が悩みを打ち明けている段階で哲人は一つの違和感に気づき、指摘する。それは、原因論で何事も考えているということだった。フロイトに関する書籍を読んでいる人からすると当然の考え方だし、ビジネスの世界に生きている人はなおさらだろう。原因があって結果が生まれるという考え方は至極当然のものに思えるが、アドラーはこれを否定する。
なぜ否定するのか。それは原因論に依ると未来が過去によって規定されてしまうからだ。アドラーはこれを否定し、目的論で考えるべきだと提唱する。
目的論で考えるとどう変わるのか。本書では、不登校で引きこもりの男性が例に引き出されていた。原因論で考えれば学校で問題があり、そのせいで学校に行けないという因果が導き出される。次に着手すべきは、この問題の解決になる。
一方、目的論では、彼が学校に行かないのは、学校に行かないという目的を持っているからだと考える。そして、彼にまとわりつく不安は、その目的を達成するために生成されているというのだ。
外に出ないために不安を自ら作り出す……。僕はこれを聞いたときに二つの衝撃を受けた。まずは「何を言っているのか」という衝撃だ。普通に考えると彼は学校に行ける状態の方が良いと考えるだろう。それを否定するような言葉だと思った。しかし、次の衝撃が訪れる。じゃあ自分はどうだったのだろう。というのも僕は不登校だった時期があり、彼の気持ちがわからないでもないと思ったからだ。そのころの僕はひねくれていて、色んな嫌なことをした。それらのことは何を目的に行われたか考えてみたが、学校に行かないためという結論以外が出てこなかった。つまりアドラー心理学の考え方が当てはまったのだ。
この二つの衝撃を受けてからアドラー心理学について冷静に見ることができるようになった。そして、この考え方はとてもいいなと思った。なぜなら、その問題を解決するためのアクションが原因論で考えるより明確だと思うからだ。
例えば、僕が不登校期間にやった様々な嫌なことは、パッと見ると色んな原因でやっているように見える。それぞれを原因論で考えて、その原因の解決を図っていると、とてもじゃないが体力は持たないと思う。一方で目的に沿って人の行動を見るとどうだろうか。僕の当時の行動はわかりやすいくらい学校へ行くことを拒否していたし、特別に悪い人間になることで注目を集めようとしていることが明白だった。何が嫌でどうしているのかがわかれば打ち手が考えやすくなる。
このように考えると面白いなと思うのが、目的論の方が原因を明確にしやすいのではないかということだ。一方で原因論は、問題点が置換わりやすい。見せかけの課題によって問題解決がなされない現状は世界中の組織で見受けられるだろう。その時々の行動の原因を探ってしまうと振り回されてしまうので特にそうなる。
過去は僕たちの未来を規定しない。これがとても大切な考え方になる。先ほどは不登校という問題性が強いとされる事例にスポットを当てたが、これがどのような問題になろうと、その問題をどう捉えるかは人によって差異がある。問題によって傷つく度合いに差異があることもあれば、そもそも受け取り方が異なっていて、一方の人には喜びの感情が芽生えることだってあるかもしれない。つまり、過去の経験自体ではなく、過去の経験に自分がどのような意味を与えたかによって自らを決定すしているのだ。
人は誰しも客観敵な世界ではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいる。他者を思い通りに動かすことはできないかもしれない。でも、自分がどうありたいかを願い、そのとおりに行動することは不可能ではない。刺激と反応の間には、選択の余地がある。不登校だった僕は、両親のちょっとした言動で激怒していたが、怒るのか耐えるのかを選ぶことだってできたはずなのだ。つまり感情すらも出し入れができる。
このような考えを知ったうえで、過去の経験を見直してみると面白いだろう。今までは憎らしいだけだった過去も捉え方が変われば、時間を経て成長のきっかけにすることができるかもしれない。こうやって過去の経験を見直す場合は事実と解釈を分けて考えることが大切だろう。当時の解釈をそのまま思い返せば感情的になってしまい、成長のきっかけにすることができなくなってしまうかもしれない。
相手の行動に対して反応的に怒ることも少なくなれるかもしれない。相手には何か目的があってそれが何かを理解する余地を持てばよいのだ。理解できなことよりも、理解できることに対して僕たちは冷静になれる。
このように学ぶと、自分は多くの成長チャンスに恵まれているのだなと思う。いかなる出来事も自分がどのように行動すべきかを明確に選択していけば、自分の行動にもしっかり意味付けされていくからだ。そうやって行動すれば成長できるということは、変わりたいと言うだけで何も変われない人は、結局のところ自分の行動に責任を持たず、変わらないという決断をどこかでしているのだろう、と考えさせられる。
さて、アドラーは全ての悩みは対人関係にあると提唱する。
これを聞いて考えてみたのだが、確かに自分の悩みを深堀すると人が関係しない悩みなんて全くなかった。そして、対人関係の悩みは自分以外の人間が一人でも存在すれば発生するわけなので、現代社会では誰もが抱えている悩みだといえる。
特に自分の周りでよく聞く悩みが「あの人は〇〇なのに、私は△△だ」というもの。
人間には普遍的な優越性の追求があるらしい。そして人は何事も相対的に捉える生き物だ。これによって他者比較が生まれ、劣等感を抱くようになる。だから優越コンプレックスのように、何事も自慢したくなってしまう。逆に特別に不幸になることで他者の目を引こうとする不幸自慢もある。
一番恐ろしいのは、このようなコンプレックスを理由にして、自分が変わることを拒否するケースだと思う。他者になすりつけて自分はコンプレックスを振りまくような人間は、他者の人生を生きていると思う。つまり大事なことを自分で決められていない。健全なコンプレックスとは他者との比較ではなく、理想の自分と現状の自分のギャップによって生じる。そこで理解したギャップは成長の原動力になる。
様々な口実やコンプレックスを理由にして人生のタスクを回避しようとする様子をアドラーは人生の嘘と呼んだ。これは理由を作り上げて自分が変わる機会を逃しているということだ。これを回避するには冷静に自分を見つめて、自分が変われるところは変わる勇気を持つことだろう。
もしも他者がこのような状態に陥っていても土足で踏みこんではならない。なぜならそれは他者の課題だからだ。多くの問題は、このようにして引き起こされているとアドラーはいう。本書に何度も出てくる表現が、これを説明するのに使える。仮に馬がいて、その馬に水を飲ませる場合、僕たちにできることは水辺の近くに連れていくことだけで、水を飲む決定をするのは、その馬に他ならない。他者の問題も同様で、僕たちは水辺に連れて行ってあげることはできるけれど、水を飲ませることはできないのだ。もしも、誰の課題かわからない課題がある場合は、最終的にその課題を誰が引き受けるのか考えてみるとよい。その引き受ける人が解決すべき課題である場合がほとんどだ。
このような行為を「他人になすりつけている」とか「そんなんじゃあ人に嫌われる」と揶揄する人がいるかもしれない。このように、気がつくと気持ちが傾いてしまうような普遍的な思いをカントは傾向性と呼んだ。
確かに人に嫌われることは怖い。日本のリアルなコミュニティは、かなり閉鎖的で移動することが困難である場合が多い。つまり嫌われてしまった場合、多くの年月を苦しい環境下で過ごすことを強いられる可能性があるのだ。僕も、それを恐れる気持ちが全くないわけではない。
しかし、それが理想の状態と言えるのだろうか、自分の想いを叶える方法だと言い切れるのだろうか。僕は否定せざるをえなかった。なぜなら、これはあくまでも嫌なことの回避で、自分の好きなことを追及する方法ではないからだ。結局のところ、相手が自分をどう思うのかは、相手の課題になる。つまり自分が完全にコントロールすることなどできないのだ。それなら、嫌われる勇気を持って、自分の望む状態のために行動することに時間を割いた方がよいのではないだろうか。
もしも人間関係で悩みがあるとき、相手はどう考えているのだろうか、という疑問を持つのは当然だと思う。こうやって相手の気持ちを考えて行動すること自体は全く悪いことではないと思う。一方で、対人関係のカードは自分が握っていることを忘れてはならない。私のことをどう思うかは相手の課題だが、相手のことをどう思いどう行動するのかを決めるのも私しかいないのだから。
このように他者の課題をうまく分離できない人をアドラーは自己中心的な人という。なぜなら、そのような人は、自分の考えだけで他者の課題に首を突っ込んだりするからだ。これは線引きが難しいが、普段話していて自分の意見を押し付けたり、その人が信じているフレームにはめようとするのを見る機会がある。これは他者の課題にずけずけと侵入してしまっている例だろうなと思う。そうではなく、自分の意見はあくまでもこれ、君はどう思う? と自然に聞けることが大切なのだろうなと思っている。
これまで共同体の中で生きる人が抱える悩みに対するアドラー心理学の考え方をもとに進めてきた。最後にアドラーが考える人が価値を感じながら肯定的に生きるための三つの要素をまとめて締めたいと思う。
アドラーは言う。人は、共同体の役に立っていることを主観的に感じた際、自分には価値があると感じるのだ、と。世間では、人が価値を感じる瞬間として承認欲求の存在が頻繁に挙げられている。アドラーは、この承認欲求の例として挙げられやすい「褒められること」を否定している。なぜ褒められることを否定するのか。それは、褒める・褒められるという行為が縦の関係性を生むからだ。アドラー心理学では人の優劣をつけない。誰もが自分の目的に向かって歩いているので、誰がどれだけ進んだという一方通行の道のりで人生を規定することも許さない。そのため横の関係性を構築してフラットな視点を養うことを求める。
褒められることによる価値の充足を否定するアドラーは、三つの行動によって価値を感じるべきと述べた。
①自己受容
変えられるものと変えられないものを切り分け、否定も肯定もせずに、まずは自分を受け入れることから始める。仮に苦しくなるような過去と向き合う必要がある場合は、アドラー心理学の最初の学びを思い返す必要がある。経験をどう活かすのかは自分次第。与えられたものをどう使うのかを考えるのだ。きっと時間がかかるかもしれない。でも、苦しい目的を生む連鎖を断ち切らなければならない。
ただ僕は一日の振り返りを実施するときだけは、この行為を忘れようと考えている。あくまでも、その瞬間は自分を客観的に見るよう努めたあとで、自分の嫌だと思った部分を徹底的に否定して、どう改善すべきかを考えたいからだ。これもある意味では自分の経験をどう使うのか検討していると言えるかもしれない。
②他者信頼
ここで重要になるのは「信頼」と「信用」は異なるということだ。「信用」は金融業界でよく使われるワードで、条件付きの信頼を示す。信頼は無条件の行為だ。自分をありのまま受け入れたうえで、周囲の他者を信頼する。そうやって生まれるものは「仲間」だ。
③他者貢献
上記のステップで生まれた仲間に貢献しよう。ここで注意すべきポイントは承認欲求のために貢献するのではないということである。あくまでも承認欲求(褒められること)は他者の課題で、ここに縛られると自由な人生は思い描けない。だからあくまでも自発的に行動することが大切だ。
昔はきざに思えた「好きだからやってるだけ」というセリフもあながち悪くない。自分が好きでやった結果、相手が喜んでくれる。これはアドラー心理学の考える理想の形かもしれない。これまでに書いてきたことは、普通に考えることとはズレている場合もある。だから受け入れられないかもしれない。でも、自分が変わるという当たり前の原則に立ち返ると効率的なことばかりだと思う。だから挑戦してみてほしい。
〇読後のおすすめ
アドラー心理学の影響を強く受けているであろう7つの習慣を読みやすい漫画の形したものだ。かなり学びが多い書籍になっているので、ぜひ読んでみてほしい。