自分が言いたいことを一番的確に言い表すのはどの言葉なのか。朝から晩までのたうち回って言葉を探し、言葉を獲得するのだ。言葉がなければ人生は拓けない。思考がなければ人生は拓けない。言葉によって人生の突破口は開かれる。言葉を獲得した瞬間、思考は深まり、君の仕事は数十万人、幾数十万人のもとへ確実に届くようになる。
僕もこれに深く賛同したい。自分や世界と向き合い、思考を適切な言葉に導くことは、新しい世界への第一歩だと思う。最近特にそう思うのだが、言葉や図がなければ、人間の思考は深まらない。自分のもちうる能力の分でストップしてしまう。でも、それを必死に表現しようとすると、ある瞬間に自分の今まで見えていなかった世界が拓くのだ。僕自身も自己検証・自己嫌悪・自己否定を繰り返す人間なので、この努力は怠らないようにしたいと思った。
もちろん彼は自分自身だけでなく作家とも真剣に向き合っている。大事なパートナーとして真剣に向き合ってきたからこそ、大きな成果を残すことができているのだ。そして、彼には作家への大きな愛と尊敬がある。こんな一節があった。
作家の内面からは、マグマが煮えたぎりながら噴き出している。文章を書かなければ、自分はいつまで経っても救われない。やむにやまれず原稿を書き、書くことによって内面で渦巻く葛藤と辛うじて折り合いをつける。この世で生きるためのバランスを取る。そんな作家たちと、僕は40年以上にわたって編集者として格闘してきた。
これだけの気持ちで執筆と向き合える作家に対する羨望もあるのだが、その作家のために全てを注ぎ、全力でぶつかる見城徹の気概にも憧れる。彼は、お互いに傷口を突き合わせながら向かいあうからこそ良い本ができるし、それに携わった自分のキャラも立つのだと言う。
自分の身を切らず、自分の身を痛めずして、安全地帯で身を守りながら「キャラを立たせたい」と言ってもどだい無理な話だ。
「見城徹という男はずいぶん生意気だが、刺激的な編集者ではある」。そう作家に理解され、他の編集者から頭を一つ二つ抜け出すためには、身を削りながら、涙がこぼれ落ちる切ない作業を重ねなければならない。相手と決裂し、物別れに終わるリスクも引き受けながら、僕は作家とがっぷり四つに組んで原稿を磨き上げて来たのだ。
君は職場で目立つ人を見て「あいつはいいな」とうらやましく思うかもしれない。だが、そういう人は誰にも見えないところで魔物のような不安に夜な夜なうなされ、自傷行為のように身を削る努力をしているものだ。
身を切り、血を噴き出しながら命がけで仕事をしてこそ、初めて圧倒的な結果が出る。人人から認めてもらえる。「ここに〇〇あり」と皆に気付いてもらい、キャラクターとブランドを確立するためには、自らの身体から噴き出した血で旗を染め、その旗を高々と掲げるしかないのだ。
痺れる文章だ。分かっているつもりでも、ないものねだりばかりして、努力を怠ってしまう瞬間はある。そういう自分を寝る前に振り返って、こんな卑小な自分とは今日でお別れするのだと、身を切るような思いで誓う。そんな僕の毎日が全く無駄ではないのだなと思えた。少なくとも成功者は、このような努力を経験しているし、何なら僕はもっと頑張る必要があるのだと励まされた。
見城徹は、しっかりと向き合う。自分の弱さにも、相手のスケールを突き抜けるような人間性に対しても。彼は、妥協することをとても嫌う。それ以上に、それらを丸々呑みこむような生き方や仕事の方法を好む。妥協して生み出した世間一般の線表に則った考え方よりも、お互いの内臓をぶつけ合って生み出される、全く新しいものを好む。その象徴として、見城徹はキラーカードという言葉を多用する。キラーカードは、自分が持っている武器のようなものだ。お互いがキラーカードを持ち合うことで、他にない素晴らしい仕事が可能になる。ただ羅列された人脈とは決してできない仕事ができると考えているのだ。
見城徹は、いくつもの本を読み、自らの死生観の中で必死に仕事をすることで、現実と自己観念の狭間で闘う意志のようなものを見事に獲得していると思った。そんな記述を引用して、締めたいと思う。
755で僕に「頑張れば夢はかなうでしょうか」と質問してくる人がいる。こんな質問をされたところで、「かなうでしょうね」とでも答えるしかない。こういう言い方をしては申し訳ないが、「僕は夢に向かって生きています」という類の物言いには吐き気がする。
現実は矛盾だらけだ。ピュアな夢なり野心だけで生きられるほど、この世はきれいごとで満ちあふれてはいない。矛盾によって板挟みに遭いながら苦しみ、七転八倒しながら、それでも匍匐前進する。
〇読後のおすすめ
「たった一人の熱狂」を編集した編集者の書籍である。編集者は著者から一番学ぶと述べていて、実際に見城徹が憑依しているような記載も見受けられた。ぜひ確認してみてほしい。