たいていの人は、集団に同調したいという自分の欲求に気づいてすらいない。誰もがこんな幻想を抱いている。——私は自分自身の考えや好みに従って行動しているのだ、私は個人主義で、私の意見は自分で考えた結果なのであり、それがみんなの意見と同じだとしても、それはたんなる偶然にすぎない、と。彼らは、みんなと意見が一致すると、「自分の」意見の正しさが証明されたと考える。それでも、多少はほかの人とちがうのだと思いたがるが、そうした欲求は、ごく些細なちがいで満たされる。……
僕の周りで言うと結局のところ出会いのドラマチック性や対象の些細な違いを誇示する部分で、このようなエゴが出ている機会は多いと思う(恋愛の会話自体が嫌いではないので悪しからず)。資本主義によって同じ機会や物が与えられることこそ平等なのだと思うようになった結果、こうした部分で差異を生もうとしているのだと本書には書かれていた。なるほどと思った。それと同時にとても悲しくなった。結局、他人とこうやって比較したところで、比較対象かつ自分が保有しているものは変わらないわけだし、そこに深まりが生まれなければ、比較できなくなったときや負けた時に虚無が生まれるだろうと思ったからだ。やはり、大事なのは愛する技術を学び、「対象」と「行為」の両面から愛を深めることである。
さて、愛とは能動的なもので、自ら踏み込んで与えるものである。能動的とは外的に何か影響を与えているということではない。なぜなら、外的に強い影響を与えている行為でも動機が受動的で、何かに駆り立てられているかもしれかいからだ。逆に瞑想している人は自分に耳を傾け内面的に高度な活動をしている。これはすごく能動的な活動だろう。このように自ら相手を愛することが大切だ。言葉にするとシンプルすぎて驚いてしまうが、これが意外に難しい。本書にも記されているが、性欲は他の欲求と結びつきやすい。性欲が何かに結びついて、それが愛の欲求だと勘違いしてしまうようなケースは、一見すると能動的に動いているようで受動的な行為に終始する。そうではなく、本当に相手のことを思いやって愛すること。そうやって心から相手を信頼し愛することができれば、その人は自分に本当の信頼と愛を返してくれる。これは恋愛に限らない「愛する行為」の技術だ。
しかし、自分から相手を愛することはかなり勇気がいる。なぜなら、相手から愛される保証がない状態で、こちらから愛する行為を見せることは恥ずかしいし、場合によっては失敗して傷つく可能性があるからだ。そんなことを思っているとこんな文章に出会った。
信念と勇気の修練は。日常生活のごく些細なことから始まる。第一歩は、自分がいつどんなところで信念を失うか、どんなときにずるく立ち回るかを調べ、それをどんな口実によって正当化しているかをくわしく調べることだ。そうすれば、信念にそむくごとに自分が弱くなっていき、弱くなったためにまた信念にそむき、といった悪循環に気づくだろう。また、それによって、次のようなことがわかるはずだ。つまり、人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは、無意識のなかで、愛することを恐れているである。
愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しかもっていない人は、わずかしか愛することができない。
僕は、この文章に強く心を打たれた。正直、僕の疑問がすべて解消したわけではないし、これから努力することがいっぱいあるけれど、進むべき道を見つけることはできたと思っている。あとは実践だろう。
〇読後のおすすめ
恋愛における圧倒的な経験がしたいけれど数をこなす方法がわからないという方向け?
タイトルと中身でギャップがあったので驚いたが、このような恋愛観に触れてみるのもよいと思う。