※ネタバレ注意。
つい最近、著者の島本理生が直木賞受賞した。元々気になっている小説家ではあったのだが、それが僕の背中を強く押した。それに僕自身も恋愛小説を読みたいなと思っていた。今まで僕は恋愛とは苦しいものだと思っていた。だって、基本的にうまくいくことは少ないし、心の中がモヤモヤして、視界が悪くなる。僕は、この視界が悪くなる感覚が本当に苦手で、これを感じると倦怠感に呑まれる身体になってしまっている。だから恋愛は苦しいと思い込んでいた。それが、最近考え方が変わった。恋愛は人を大きく成長させるし、そういう話を聞いていると、自分が恋愛しているかどうかに限らず気持ちがワクワクした。あの視界不良の感覚は、実は成長している過程を確かに感じられる瞬間なのかもしれない。結局のところ恋愛とは、人と人のぶつかり合いである。恋愛特有のテクニックはあれど、それ以上に人として、どう人に接するのかを問われる。そんな当たり前のことに気づいたからこそ、僕は恋愛への考え方が変わり、このような小説にも興味が持てたのかもしれない。
さて、本書を読んでいて、僕は誰に対しても共感できなかった。もちろん場面的な共感がなかったわけではない。例えば、体調不良と言って劇の稽古を休んだ葉山先生に対して、絶対に仮病で悩んでいることがあるに違いないと考え、彼を探しに行った彼女の行動。僕も、こういう嘘に対して直観的に理解が働くタイプだと思っている。うまく説明できないのだけど、自分が過去にボロボロになったからだろうか、内的にボロボロで弱さを抱えている人が一目でわかる。主人公の泉は、葉山の内的な弱さを知っていたし、それが徐々に強まっていることを理解していたのだろうと思った。ただ、そこで具体的に行動して、彼を見つけることができたのは彼女の強さだろう。
さて、話を戻して、共感できなかった理由を考えてみると、ある言葉が脳裏に浮かんだ。それは「依存」である。たぶん僕は、信頼を寄せる人間にすごく依存してしまうタイプだ。一方で、自分ではそれをすごく嫌っていて、自分でできることの幅を広げたいと願ってきた。でも、そうやって広がる世界の先はすごく複雑で自分では到底理解できないような専門的な世界が広がっていたりする。そうなると見識のある人にそこだけ依存する方が楽なのだが、かつての自分はそれが許せなかった。どうしても独力で解決したいと考えていたのである。この「自分が変わる」という考え方はとても大事だが、一方で独りよがりの考えに陥ることも多々ある。本書の登場人物には、この危険性に陥りそうな気配が常に漂っていて、それが僕をとても不安にさせた。自分が悪い、だからこの想いを隠してしまえばいい。そういう考え方を見ると僕はもどかしくなる。世界はもっとオープンで君の考えを受け入れてくれる人や、君のために意見してくれる人が存在することを伝えてあげたくなる。
共感できない……とお伝えしたが唯一、小野君に対しては、具体的な共感ができたかもしれないと思う。それは彼の泉に対する愛情表現だ。去ってほしくないのに逆のことを言ってしまったり、求めていない泉を激しく求めたり。学生時代の自分の女性の愛し方を思い出してしまった。不器用で真っ直ぐなんだけど、そこには独占欲や不安が、これでもかというくらいに纏わりついている。そう、彼は知らなかっただけだ。泉が彼を愛していたことを。それは泉が表現できなかったということでもある。あまりにも不器用な失恋だ。だが、そのような恋愛をしてきた自分を振り返ることで、人は少しずつ強くなるのだと思う。
最後に柚子と泉の対比について。彼女たちはあまりにも近しい出来事を経験してきた。男性につけられたり、自殺を考えたり。しかし、結果は全く異なるものになってしまった。彼女らの近くには、それぞれ想いを寄せる大切な男性がいた。泉を大切に想いながらも彼なりのペースで接し続けて、結果的に彼女の自殺を阻んだ葉山。そして、柚子の経験を手紙で知りながらも彼女への対応を後回しにしてしまった新堂。結果だけを見て新堂が悪いと言い切ることはできない。葉山だって、泉を失ってしまっていたかもしれない。危機とはあまりにも突発的で予測のつかないことなのだ。