さて本書のルールでは「音」が消えると、世界からその「音」を使った概念も消えてしまいます。仮に「ほ」という音が消えれば「ホテル」という概念が消えるので、ホテルが建っていた場所には「旅館」が営まれているか、跡地になってしまっているはずです。
このように音が消えることで生まれる弊害はいくつもあるのだと本書を読んでいるだけでもわかります。まず、語彙が少なくなってくるので、色んな音を駆使して相手に自分の持つイメージを伝える必要があります。伝え手の表現力に頼る一方で、受け手の理解力もコミュニケーションの多くを担うことになるのです。仕事をしているとコミュニケーションに端的さや論理性を求められることが多々あると思います。生産性を担保して働くためには簡単な伝聞は時間を割かないようにする必要があるからです。この端的さや論理性を支えているものは何か。それは共通認識を持つ言葉ではないでしょうか。たった一言で多くを理解できる言葉。本書を読みながら私は自分たちが日々使っている簡単に事物を示すことができる言葉たちに想いを馳せました。名前とは単なる記号ではないのですね。
物語が進むにつれて主人公の行動がすさんでいくことに注目した方もいるのではないでしょうか。単に酒癖が悪いだけと捉えることも可能ですが、私はそれを簡単に片づけるものではないと考えています。主人公は音の喪失によって理性や知性を次第に失っていったのではないでしょうか。例えば、真っ先に消失した「あ」という音。大切な「ありがとう」という言葉を支える音です。その言葉が消えたことによって生じる弊害は何でしょうか? やはり感謝の言葉を簡単に言えなくなることがあげられると思います。たった一言のお礼を言うのに躊躇いが生じるのだからコミュニケーションが大きくズレる可能性があります。そうなると「ありがとう」という言葉を受ける人の気持ちや、それに伴う行動の連鎖が失われるのです。ひとつの音は、その音を使った言葉を消すだけではないのです。そうやって考えていくと「音」の消失によって理性や知性が失われるのは何も不思議ではありません。ぼんやりとした感謝の概念はあっても、それが何なのか、どのように表現すれば良いのかわからなくなってしまえば、それは世界から完全に消えたと同義だと私は思います。彼の中でもそのような概念が消えてしまい、相手を威嚇するような行動に終始したり、意味もない行動を繰り返したりしたのではないでしょうか。感謝の言葉がなくなって、威嚇や逃亡といった行動が増えると考えるのは少し寂しくもありますが……。
後半で主人公が何を考えているのかわからないと何度も思いました。言葉を自在に使いこなして町の人を小ばかにしていた余裕も消え、生きていることに焦りがあるように映りました。音の消失によって最後は、そういう虚構の世界を自分が作り出したことすら覚えていなかったのでしょうが、私は本書を通して言葉で何かを表現・定義することの重要性を身に染みて理解できたと思います。