本書を読むのは大学生以来、数年ぶりだ。初めて本書を読んだときの衝撃を僕は子細に思い出すことができる。まず村上春樹がデビュー当時から既に村上春樹としてのカタチを持っていることに驚かされた。そして、そこに描かれていることが僕の胸にガツンと突き刺さったのだった。僕が今回再読して感じたこともそこが主となっている。
例えば、当時の僕は何か言葉を発する度に人を傷つけるリスクがあることに気がついた。そして、クールな人間はかっこいいのだということにも気がついていた。そして、僕はよく思考して話すことができる人間になろうと考えた。しかし、それを真っ向から否定するような文章に出会ったのだ。
かつて誰もが、クールに生きたいと考える時代があった。高校の終わり頃、僕は熱心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたが、その思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
当時の僕は、僕自身がそんな風になってしまうことを恐れてクールであることをやめた。それにはこんな文章も影響している。
文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています。」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ。)君が何も言わないとクッキーは無い。(医者は意地悪そうにクッキーの皿をテーブルの下に隠した。)ゼロだ。わかるね? 君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア。ゲームだ。やってごらん。僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。消化不良……。
そしてその後に一見すると意味のわからないようなDJの言葉が続く。ここでオンとオフが描かれているがこれこそが人が大事にすべきもの、文明なんだ、と思った。大事なのは伝達するための背景情報や余計とも思える装飾なのだ。つまり僕達はコンテキストを使って伝達しているのだと確認した。これはかなり面白いし、クールに生きようとしていた僕はそれに逆らった行為をしようとしていたのかもしれなかった。このことに気がついた僕は、生きる上で大切なものを捨てるクールという性質を自分から排除することに決めた。これが正解かどうかは未だにわからないが、現在僕はクールでいることが自分に良い結果をもたらしたことはないと判断している。
最後に以下の文章をご紹介したい。
僕は時折嘘をつく。最後に嘘をついたのは去年のことだ。嘘をつくのはひどく嫌なことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつき、しょっちゅう黙りこんでしまう。しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。
この文章が 大好きで、かつては何度も見返していたのだが、今となっては色々と思うこともある。それは、「それを言ったときにはそれが嘘だなんて自分では思ってもみなかった」ということもあるという事実だ。相手との会話の中で自然発声的に口にした一言が、よくよく考えてみると事実と違っていたことはないだろうか。数値を盛って話すのもこれに含まれる。このような出来事は、客観的に振り返るとアホらしいし、以降は改めようと反省できるのだが、それを口にした一瞬、僕はそれを本気で信じているのだ。この場合は嘘をついている、という感覚では無いのかもしれないが、結果的に無意識に嘘をついている。こんな瞬間があるのは僕だけなのだろうか。
○読後のおすすめ
僕が最も愛する村上春樹の一作だ。人が抱える心の痛みに寄り添うことができる物語だと思う。