横山秀夫の小説を読むといつも実感させられる事がある。 それは文章の上手さである。僕に本書を紹介してくれた先輩は、それを記者出身であるからと言っていた。僕もそれは思う。が、記者として培った事実を端的に表現する力と、その中で揺れる人の心情をしっかりと表現しようとする文章に良さがあるのだと僕は思っている。記者だったから文章が上手いというわけではない。小説家として横山秀夫が人と向き合った経験が文章に表れているのだ。
第三の時効(横山秀夫)の書評 - 本を読むこと-読書から何かを学ぶためのブログ-
文章が下手で申し訳ないのだが、ここで感じていたことや述べたかったことを、もう少し具体的な形で小説に落とし込まれているのが本書なのだと僕は思った。つまり、横山秀夫の記者としての経験やその時の葛藤が本書には度々出てきていて、それが読み手の心をこの上ないほど揺さぶっているのだと考えたのだ。
本書の軸に据えられている事件や事故はどれも実際に起こっているものである。僕自身は、正直なところそれに詳しくはなかったので「なんか聞いたことあるような事故だな。本当にあったものをモチーフにしてるのか?」ぐらいにしか思っていなかった。しかし、途中からそんなことは、全く気にならなくなるぐらい描写がリアルで、僕は主人公・悠木の心情に引き込まれた。体験したこともない記者としての葛藤に僕が引き込まれたのは、横山秀夫自身がそれを体験し、どう物語として伝えればいいのかを試行錯誤した結果なのだろうと思った。
物語の最初では、記者として事故や命にどう向き合っていくのかが悠木や神沢に問われている。現場にいる記者といない記者。現場に行った神沢は、刺激的な描写でありのままの事実を記述した。それを否定し新聞としての文章のあり方を説いた悠木。どちらの姿勢も間違っていないのだ。そして、悠木は神沢に寄り添うことで問題を解決する。悲惨な事故現場を目の当たりにすることで大きなダメージが目撃者に降り掛かっていることを、本人も気がついていないことがあるのだ。しかし、本当の痛みは被害者や現場に触れることでしか知ることはできない。テレビでも現場を見ることなくそれについて論じている人がいるが、あまり説得力はないように映る。そう考えると神沢の行動は、彼が目指す記者の姿をカタチにする上で欠かせないものだったのだろう。
神沢と悠木の間で事故の描写について葛藤が起きていたのが前半なら、後半では望月によって命の重さをマスコミが決定しているという問題提起がなされる。確かにその通りで、大きな事故のようにマスコミに取り上げられやすいものほど世間の注目が増す。亮太のように統計にも残らない死を遂げた人間はどうなる? という望月のセリフは胸に刺さった。だが、マスコミが全ての「人の死」を等価に扱えば済む問題ではないのだろう。マスコミの役割は、それではないからだ。横山秀夫はこの問いかけにずっと耳を傾け続けていたのかもしれない。小説では、小さな命にスポットを当てることが多いだろう。今後どのようにそれらが描かれていくのか今から楽しみだ。
最後に、それぞれ何らかの嘘を隠しながら付き合っていた悠木と燐太郎の二人。二人が抱き続けていた過去の感情を吐露することで物語が締めくくられている。この描写を通じて二人が家族になる可能性も見せているが、これはすごく良かった。安西の死で更に近づいた二人の距離を本物にし、家族に対して距離の詰め方がわからなかった悠木の悩みがすっと消えいくのを感じた。十七年前だけでは話が成立しなかった理由が何となく分かったような気がした。それぞれが前を向いて生き続けた結果がこの物語には必要だったのだ。
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