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ふくわらい(西加奈子) 生きようと願う人の物語[レビュー]

「ふくわらい」(西加奈子)を読了したので、その感想を投稿したいと思います。

 

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

 

※ネタバレを含む可能性があります

 

 本書は第一回河合隼雄物語賞受賞作品です。「物語」なんてついてる賞を受けているわけですから、当然物語性は高いと思います。そして、そこで描かれているテーマは西加奈子が何度もトライしている「生」です。他の西加奈子の作品を気に入った方は、この作品も好きなのでは? ただ描写がきつい場面があるので、苦手な人は途中で読むことをやめてしまったかもな、とも思いました。

 

 さて。テーマである「生」、もしくはそれと対極にある「死」は西加奈子の他の作品でも取り上げられていることは上述した通りです。

 私は以前に「漁港の肉子ちゃん」という小説を読み、「ありのまま生きる」ということについて考えたことがありましたが、本書でもそれが描かれていることに驚きました。もちろん違う視点で。

 漁港の肉子ちゃんでは、キクりんのありのままの決断や肉子ちゃんの行き方から、ありのまま生きるのって結局なんなんだろうか。ということを考えました。結果的に私は様々な環境に左右されながらもその時、自分がとった行動が一種ありのままの行動なのではないだろうか、と結論づけました。それらに左右されている自分も、自分なんだと、一旦受け入れようじゃないか、ということです。

 本書でもこのテーマに定、小暮、武智の三人が挑んでいます(小暮が勝手に考えている感もありますが)。大学生かよ! とつっこみたくなるような「さきっちょだけ論争」を経て、物語で三人はあるがままに生きることを、その人の全てを受け入れることを考えます。漁港の肉子ちゃんのときにはどちらかというと主観的な目線で考えることが多かったのですが、本書ではそれぞれの目線で「ありのままに生きる」「その人を受け入れること」ということについて考えます。特に小暮と武智が言い争っていた「その人について知っていること」が「その人のすべて」というのは興味深いです。私はどちらかというと、これについてはメディアを通して考えることが多いです。情報は断片的で結局は自分の知っていることがすべてなんだ、と受け入れなければいけないことが多々あるからです。それに情報は生きている。時間が経てば状況が変わるのは当然で、自分の知っていることが完璧だなんて、自身を持って言えるのだろうかと常々考えます。人の情報ももちろんあるわけですから、本書も捉え方は違うものの、少し似たようなことを感じさせるかもしれません。

 

 本書の主人公である定は、何もかもを遠くからぼんやりと見ているような動きをします。一方で特異なことに挑戦したりします。その描写は独特で、正直気持ち悪い側面も多分にあるのですが、それが物語にいい面をもたらしてくれています。定は結局辛いことを飲み込めているようで飲み込みきれていなかった。もしくは受け入れられていなかったりすることがあったのです。それを何だか感情にできないまま大人になったものの。感情を言葉にすることを躊躇う守口との出会いで変わります。結果的に何かを溜め込んでいた定は、守口宅で嘔吐を通して溜め込んでいた感情を吐き出します。このシーンを読んで私は少し安心しました。エキセントリックに思えた行動と共に心のどこかで良からぬものを背負い込んでいたんだなって。それが吐き出せたのかなと。

 

 言ったらそれが全てになる。それを恐れて生きづらさを感じる守口。私もこの悩みにぶち当たったことがあります(守口ほどは悩んでいない)。これはもしかすると西加奈子の悩みなのかもしれません。守口のキャラから生じた言葉なのか、西加奈子の言葉を守口が発したのか。どちらにせよ、書き手である西加奈子の頭の中には同様の思いがあるのでしょう。そんな考えからこの小説は生まれているのかもしれません。

 本書は一部分を取り上げてみてもおもしろみが全く伝わらないと思うんです。それは本書の強い物語性がしっかりと反映されているからだと思います。言葉で表現しきれないなら物語にする。これは西加奈子に限らず、小説家誰もが挑んでいることなのかもしれませんね。

 

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

 

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