僕たちは魔法のような世界をコンピューティングによって生み出していく(魔法の世紀を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
本書の導入部に以下のような記述がある。
……現在の僕は筑波大学に所属する研究者であると同時に、メディアアーティストとしても活動しています。しかし、僕はこの二足のわらじを履く中で、一つの悩みを抱えてきました。それは、自分という人間を語る「軸」はどこにあるのかという悩みです。僕の中で、研究と表現は不可分のものです。しかし、そのことを他人に説明する言葉を、なかなか見つけることができませんでした。単に自分の各々の研究を説明するだけならば、あるいは自分の作品のコンセプトを解説するだけならば簡単です。ところが、その二つがどう結びついているのかを説明することは、困難なのです。あるときから、僕はこの問題を解決するためには、技術と芸術の両方——つまり、ラテン語の”Ars”の現代的なあり方を表現するメタ的な視点が必要ではないかと考えるようになりました。しかもそれは、アートと技術を包括するものでありながら、どちらとも異質である必要があります。それこそが、この「魔法」という概念であり、そして「魔法の世紀」というパラダイムなのです。
複数の前提の話が欠落された引用なので、ここで落合陽一が語ろうとしていることのすべてを理解することは困難だろう。しかし、ここで僕が最も強く感じたのは、彼の芸術と技術に関する熱量であり、彼のマインドなのである。そこから生まれた「魔法」という言葉に僕はとてもワクワクした気持ちで本書を読んだのだ。
■映像の世紀から魔法の世紀へ
20世紀は映像の世紀だった、と落合陽一は語る。エジソンによって生み出されたキネトスコープは、より大衆向けに改良されてシネマトグラフへと進化を遂げる。これは今も映画館で使用される映写機の基になった機械だ。
この機械の登場が意味することは何か。それは大衆にメッセージを届けることが容易になったことを指す。
政治的なメッセージ性を持つ人間は、迷わずにこれを利用した。彼らの声やジェスチャーが、彼らの肉体を越えて届けられた。今まで噂や書面でしか見られなかったものが、ビジュアル的に確認できるようになったので、彼らの意見はより実を伴って広まるようになったと言えるだろう。
しかしこれは、逆に言うと一方的な情報の受け取りでしかないとも言えるだろう。20世紀はこの文脈の中で進化を遂げてきた。スマートフォンも移動性と容易性において進化を遂げた結果と言える。それにスマートフォンの登場自体は、1980年頃には予言されていたことも本書に記されている。SNSの登場によって情報の発信と受け取りはN対Nになりつつあるとはいえ、映像を中心とした進化を遂げる文脈の中にいたことは大きく変わらないと考えられるのだろう。
これからの時代はもっと大きな変化が起きる。まるで魔法のようにコンピュータが様々なことを実施してくれる世界になっていく。
魔法は、それができる理由を詳細に説明しない。アニメで魔法が発生する理由の詳細を求めたことはないと思う。これからのコンピュータも同様に、理由を説明しないし、人によってはそこにあることを意識しない存在として、多くのことを成し遂げると考えられる。今のスマホネイティブを超越したスーパーネイティブの登場だ。
最近、ソードアートオンラインというアニメを観ていて思ったことがある。いくつかあるシリーズの中で放送中のものは、主人公が人工知能によって生み出されたバーチャルリアリティの中に飛びこんでいくことによって物語が生まれている。
そこで生きる人々(人工知能)は、法を犯した際にシステムエラーで体が制御されることを当然と考えている。これが現実世界で発生したら大変だ。何かの病にかかったのか、もしくはシステムを管理するものによって意図的に体が制御されていることを意識せずにはいられないだろう。しかし、彼らはそんなことを意識しない。ただ法によって自分の行動に制限がかかったという事実だけを意識する。
これこそスーパーネイティブだと僕は思った。
■心を動かす計算機
落合陽一のようなメディアアーティストは、技術的な努力と芸術的な努力の両面を強く求められるという。そこで、考えなければならないのが、コンピュータは心を動かすことができるのかというテーマになる。本書では「心を動かす計算機」と呼ばれている。
そもそもこのようなテーマを考えるのは、人が機械に対して感動して涙を流すことが滅多にないと想定されているからだ。数年前にリリースされたペッパーくんは、まさしくここを市場として狙ったのだろうと推測できる。他にもAIによる小説執筆の取り組みのように、人がクリエイティブに生み出してきたコンテンツの領域に機械が参入することは、今後のそう遠くない未来に実現されるだろう。
それでも人が機械に対して感動することを想定するのが難しいのは、人と機械に心の距離感があるからだろう。人は媒体とコンテンツを分けて考える。例えば、感動を覚えた記事があるとする。人は、その記事の中身はもちろんのこと、この記事を執筆した人や取材背景に想いを馳せる。そして、それぞれを理解したところで、それらを一つの一貫した情報として理解すると僕は考えている。
この一貫した情報の中に機械による創作が、これまでは考慮されてこなかった。なので、人は異物なものとして考えてしまい、心が揺さぶられなくなる。しかし、メディアアーティストは、この壁を取り払わねばならないのだ。
このようなテーマになると先ほど取り上げたソードアートオンラインは、実は色んなことをテーマに含んでいたりする。
最近放送している回では、主人公が現実世界での記憶を一部操作された状態で、人工知能だけで生成された世界に飛ばされるのだが、彼はその状況に適応し、最終的にはそこに生きるNPCを普通の人と同様に扱うようになる。
当たり前のようにそこに存在するようになり、それが今まで見てきた人と何ら変わらない認識で接することができるものだと理解されたとき、人はあたかも、それまでそうしてきたかのように振る舞い接するようになるのだと思った。
これから生まれてくるスーパーネイティブは、人工知能との距離感に関しても僕たちが見せないような動きをするかもしれない。
つまり、人が機械と心の距離を取っているのは、そういう役割分担を共同幻想として人が持っているからで、そもそも役割ができているのは、人がそのように設計しているからに他ならない。これから落合陽一のように融合を図ってくるメディアアーティストが出てきたときに、人がどのような心理変化を起こすのか考えていく必要があると思った。
■プラットフォームが生み出す文脈
僕たちが生きる世界には、サービスを包括的に提供しているプラットフォームが存在する。代表格は、最近様々なところで聞かれるGAFAがあるだろう。
そのプラットフォーム上で人々は自分を表現しているが、それはあくまでも、そのプラットフォーム上での表現になることを念頭に置く必要がある。
芸術は、このことを意識した作品が常に生まれていたみたいだ。例えば、SNSの流行によって生まれた個人の意見の発信と、一方で自分がタイムラインに選らばないような人は、意見が抑圧されたりする現状を嘆いたとすれば、それは今世の中にある文脈上から生まれた芸術と言える。一方で、そんなことにとらわれないで原初的な感動によって挑み続ける存在もいる。落合陽一の目指すアーティスト像は、そこにあるのだと本書を通して感じることができる。
この感覚はビジネスにだってあるだろう。例えば、西野亮廣は、さんま御殿に出演して活躍しても、それは明石家さんまの手柄にしかならないのだと述べている。これこそプラットフォームが生み出す文脈上での努力を端的に表しているだろう。だから、彼はそこで努力した結果、自分のプラットフォームを作ることに注力した。
プラットフォームとは、同調圧力によって色んな想いを呑みこんでいくものだ。西野亮廣の一件だって、冷静に考えれば何も悪いことではない。各芸人が、自分の理想の番組を作れるとしたら? そう考えると違和感があまりないと思う。考えずにその場にいることは簡単だ。でも、それを考えて、打ち破ることができれば、突き抜けた存在になることができる。むしろ、今は、文脈の中で人がどんなことに疑問を感じているのか、どう生きているのかを考え続けて、それに対するアイデアを生み出していくしかないのだ。西野亮廣は、ある意味、当然のことをしたのだと思っている。
■デジタルネイチャーの時代へ
正直なところデジタルネイチャーの考え方を僕が全て理解できたとは思えない。これは僕に限らず多くの読者の方がそうだと思う。そこは今後の彼のプロジェクトなどを通して理解していく部分になるのだろう。ここでは、最後にこの考え方の一端だけでもまとめておきたいと考えている。
このデジタルネイチャーで軸になる考え方は場の制御だと考えている。では、場を制御するとは何なのか。
今までコンピュータを使って生まれたサービスは人が制御することを考えていた。それは人が使うものなので、人に理解できない要素は不要であったからだ。
例えば、音楽のデジタル化によって、人に聴こえないとされるヘルツ帯は削った状態でリリースされるようになった。その帯域を削ることで要領を削減することができるし、それができれば通信トラフィックの渋滞を緩和することが可能になるからである。
このように人は、人にとって不要なものを削ってデジタル領域で利用してきた。しかし、人以外からすると利用できる領域が、人にとって不要という理由で削られているかもしれないことを上記の例は示している。
例えば、人からすると無音の動画があるとする。音がないので、人は視覚的に楽しむしかない。だが、ここに超高性能のカメラと、そのカメラが拾った画の振動から音を生成する機械があればどうなるだろうか? 実際にこのような動画から音を拾うことに成功している実験があるらしい。音とは空間の振動によって生まれているものなので、画面から人には見えない揺れを拾って、それを音に変換しているらしい。驚愕だ。
ここから得られる教訓がある。それは機械にしか分からないコミュニケーションがこれから生まれるかもしれないという事実。そして、そのコミュニケーションから最終的に人にとって便利なサービスが提供される可能性があるという事実だ。
場を制御するとはこのような考え方から生まれている。これまでは人目線で機械を見て、人と機械を分離してサービスが生まれていたが、これからは人すらも場に存在するものとして見て、そのうえで最適なサービス設計がされるようになるのだ。
もしかしたら、今後目にするものは、今までと違い実態を持っていないかもしれない、もしかすると3Dプリンターによって生み出された終わりない植物かもしれない。そんな風に想像するだけでもワクワクするし、やはり機械との距離感を感じて少しの不安が募ってきたりする。
人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在すると考える新しい自然観、そしてその性質をデジタルネイチャーと落合陽一は呼んでいる。このブラックボックスで多くのことが成される世界こそ魔法の世紀だ。
彼にはもっと多くのことが見えているのだろう。それは、僕たちが圧倒的な努力でインプットして、思考性を高めるアウトプットを続けることで見えてくるものかもしれない。それでも現状見えていない僕は、やはり少しの不安を拭えない。人が持つ強みがよくわからなくなるからだ。
それに対しても落合陽一は一つの言説を持っている。人が持つ強みは、ビジョンとモチベーションなのだという。確かにAIが隆盛を極めている今でも言われていることだ。それこそ原初的な取り組みをできるのが人の強みで、熱いモチベーションを持ってそれを世の中にぶつけることができるのも人の良さだ。だから僕は自分の軸やビジョンを持つことにした。でもそれは、何歳になれば何円貯めてといった人生計画ではなく、僕が僕らしく生きるためのビジョンだ。このブログもそのビジョンに含まれているので、このまま努力を続けたい。
屍人荘の殺人を読んだ感想・書評
※ネタバレ注意
かなり意欲的な作品だと思った。そもそも作品のアイデアが2つのものを組み合わせてできているのだが、それも驚くような組み合わせで、わくわく感が心地よく煽られる。読んでいて「嘘だろ?」と思わせる展開が多いので、読んでいて飽きることが全くなかった。
かなりライトなタッチで物語は進むが、人の欲求や感情的な側面を全く蔑ろにしているわけではないので、そのライトさはむしろ読み進めやすさとして機能していた。時折ある人物紹介も、場を理解するのに役立って助かった。かなり読者ライクな作品になっているだろう。
だから、これまで推理小説のハードルを高く見積もっていた人でも読んで楽しめる作品になっていると思う。
個人的には、幻想的なフレームにとらわれずに、作者が好きなことをワクワクして組み合わせることで生まれた作品なのだろうと、この作品を見ている。本当のクリエイターというのは、こうやってわくわくすることをとにかく積み重ねていける人のことを指すのだろうなとも思った。
僕たちも余計なフレームに目をとられずに、自分たちが大切にしたいファンのために、何ができるのかを一生懸命考えて、実践していく必要があるのだと思う。
仮に僕が編集者でこの作品に出会ったら絶対に最高の形で世に出したいと思っただろうな。新人賞の作品として送られてきた本作を初めて見た編集の方々のリアクションを考えるとおもしろい。
本作は、第二作と映画化が既に決定している。それも僕は非常に楽しみだ。
アウトプットなくして成長などない(学びを結果に変えるアウトプット大全を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
今、僕の近くにはアウトプットの機会に飢えている人がたくさんいる。そういう人を見ていると「もっと気楽にアウトプットすればいいのにな」と思う。Twitterやブログをどんどん使えばいいのに、何らかのフレームを欲して慎重になっているような気がする。
インプット中心になっていて自分がこのような不安を抱えていると思う人は、必ず本記事を読んでみてほしい。アウトプットがなければ成長する機会を失うことに気づいていただけるだろう。
■インプットよりもアウトプットを大切にする
インプットはもちろん大切だ。人が自分のパラダイムを改めようと思ったらインプットが大切になる。しかし、インプットしているだけでは何にもならない。これは現代社会でとにかく強く言われていることだろう。
学校教育のような基礎的な学びが何度も非難の的にされているのを僕は目にしてきた。僕個人の考え方からすると、方法は別にしても、やりたいこと自体は悪くないと思っている。要は、あれが基礎的な学びであり、そこから応用的な学びと自分の興味を結び付けることができなければ何にもならないことを自覚していない人が多すぎるのが問題なのだろう。
結局のところインプットによって得られることは知識なのだろう。一方で経験して得られるものは、生きる技術になる。それは知識よりも高次元なものだ。
一説によるとインプットとアウトプットの割合は「3:7」が適切なのだという。正確に自分の行動比率を把握することはできないかもしれないが、何となく自分の一日を振り返って、どちらに比重が置かれているのか内省することはできるだろう。
■なぜアウトプットが大切なのか
今回の記事の根底に存在する疑問である。この疑問こそが読み進めるうえでの原動力になると言っても過言ではない。
結論から述べると、インプットばかりではフィードバックが全くないことが理由になる。つまり、アウトプットしても、そこにフィードバックがないと意味がないともいえる。
例えば、営業時の交渉術を鍛えたいと思って交渉心理の本を買ったとする。これを読みこむのがインプットになる。この後、営業や人とのコミュニケーションの中で、この本から学んだことを実践しなければ、それはアウトプットがゼロである。もしも本書で読んだことを意図的に実践すれば、アウトプットは成功する。しかし、ここで仮に相手の反応が悪くて交渉がうまくいかなったとする。これを「なんかうまくいかなかったな~」と終えてしまえばフィードバックがゼロである。そうではなく、相手の反応を考察し、本からの学びを復習したり、自分なりに相手の反応に対するカウンターを用意するなどの対策を考えて、次の場で実践することができればよい。
つまり、試す→反省する、という単純なフローを続けないような思考停止に陥ってしまうと、せっかく時間をかけて学んだことも意味がなくなってしまうのだ。
多くの人は学ぶことに時間と体力を使って、そのコスト感で満足してしまう。あくまでも何らかの目的に則してインプットが存在していることを忘れてはならない。
■単なる記憶で終わらせない
アウトプットの重要性がわかったところで、アウトプットする時に意識したいことを一つご紹介したい。
例えば英単語を覚えるときに皆さんはどのような学習方法をとるだろうか。僕は学生時代に単語カードを作っていた。今でもそれを自動化しているアプリが流行っているので、手段自体は大きく変わっていないのだろうと推察する。しかし、本書を読んで僕はこの方法があまり効率の良くないものだったかもしれないと思い返していた。
英単語をカードで覚える方法は一般的に「意味記憶」だ。なんかの物事に意味を与えて記憶する。つまり「物事」と「意味」を一本の糸が繋いでいるようなものだ。
この意味記憶よりも良いとされているのが「運動性記憶」だ。これは読んで字のごとく、運動しながら覚えることを指す。「物事」と「意味」の繋がりに自分が運動した記憶が結びつくので、身体を動かした際に、そのことを思いだす頻度が高くなる。
さらに良いとされている方法が「エピソード記憶」である。これを英単語の例で考えると、例文や洋書をとおして学ぶことに例えられるだろう。自分自身が海外で英語を使って話すことになれば、より濃密なエピソードとして記憶することもできるだろう。
このように一番の学びが「エピソード」になるのであれば、誰かにストーリー化して教えることを前提にインプットすればよい。僕は本を読む際に、自分が良いと思ったポイントをメモしながら、自分がどうやって、この本で学んだことをブログにすれば読み手に伝わるのかを考えている。これが自分にとっては定着しやすい環境になっているなと実感する。
■フィードバックの4つの観点
さてフィードバックが成長にとって大切な行為であることが理解いただけたところで、フィードバックにおける4つの観点をご紹介したい。これはフィードバックでどこに着目すればいいか分からないときやチェックポイントとして使うことができるだろう。
①短所克服と長所進展。
自分のアウトプットを振り返って見つかった短所を修正し、長所をより伸ばすことを考える。この二つは、特に意識しなくても考えられる人が多いと思う。
②広げると深める。
この観点は意外に忘れやすいかもしれないと思う。例えば僕が意識しているのは、今回のようにアウトプットに関する本を読んだら「インプット」や「フィードバック」に関する本を続けて読むし、「アウトプット」に関する本も、また読んでいいと思っている。一回で簡単に全領域をカバーできないと考えないと偶然うまくいったものが全てだと思ってしまう。
③なぜ?を解決する。
アウトプットした結果うまくいかなかったのであれば、その理由を考える。
僕が思うに、この理由の部分は抽象化できるレベルまで深堀する必要がある。そうしないと、そのときだけの限定的な反省になってしまうと考えているからだ。抽象化することができれば、他の場面でも応用できるアイデアになるかもしれない。
④人に教えてもらう
自分ひとりでなく、人とディスカッションすることで様々な意見がもらえるだろう。ジョハリの窓が提示するように自分にしか気づけない部分も、相手にしか気づけない部分もある。どちらも、ある意味では正しいあなたを表現しているので、双方の意見を行動に反映していくべきだろう。
■最高のアウトプットのために最高のインプットを
既に述べたとおり人に教えることは最高のアウトプット方法である。そのためには人に教えることを前提としたインプットが必要になる。つまり、多くのアウトプットはインプットの量と質に依存する。
僕の多くのインプットは本や動画コンテンツ、そして仕事を含めた日常的な生活の中にある。
仕事や生活によって得られるインプットは、突発的なものが多いので、意識したときにはすぐメモするようにしている。それ以外の本や動画のようなコンテンツに対しては、目的を持って読んだり見たりする。このように目的を持っているとカクテル・パーティー理論で、自分が得たい情報に脳の注目が向くようになる。これは量と質を上げる効果をもたらすだろう。
このように自分のインプットやアウトプットの量と質を常に見直し、どのような方法が適切なのか検討し続けること。これは自分の成長基盤を支える偉大な取り組みになる。だから僕たちは常に考えて動かなければならない。
冒頭で述べたように、人はアウトプットのフレームが欲しくなってしまう生き物だ。
なぜ、そうまでしてフレームが欲しいのか。それは完璧さを求めるからだと僕は考えている。
人は自分がアウトプットするものに自信を持っている、もしくは不安感を持っていることが多い。そのようなアウトプットがどのように評価されるのかが不安になるのだろう。僕も昔はそういう傾向がとても強かった。しかし、これは意味が全くないと思った。完璧なアウトプットを求めすぎると時間がかかるし、その間に誰かがレールを作ってしまうので、誰かのものをマネすることばかりに慣れてしまう。
しかし、僕が思うにアウトプットは量が大切だ。いくつものアウトプットを経験することで、視点が深く広くなる。仮に完璧なアウトプットばかりを求めると、誰かが用意した一点においてのみ深堀していくことになる。これは非常にもったいない。どんどんアウトプットして結果を自身にフィードバックしていくべきだ。
才能とは限られた人にのみ与えられるものではない(才能の正体を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
自分の大好きなことで壁にぶち当たったとき、人はどのように思うのだろうか。
多くの人は、自分の目標とする場所に対して、自分が持っている能力が低いと感じて、悲しい気持ちになると思う。僕だってそうだ。「こうなりたい」という願望はあるのに、そこに辿り着くまで、果てしない労力が必要に見える。そもそも辿り着けないような気持になることもしばしばである。
「自分に才能があれば」
そんな風に思って、悲しい気持ちをかき消すために、お酒や食事に逃げていないだろうか? いや、そもそも「才能」とは何なのだろうか。そんな疑問を解消するために、僕は本書を手にとった。
■才能の認知
才能とはどのタイミングで生まれるものだろうか。このような疑問を投げかけると多くの人は「遺伝」や「生まれながらの素質」と答える。逆説的に考えると、人の才能は、後天的に身につけるものではないという認識があるということだろう。
では、才能が世間に認知されるタイミングはいつだろうか。
この答えは簡単で、その人が結果を残したタイミングである。つまり、結果を残すことができなければ才能があると世間は認知しない。
このように他者が才能を認知するより前、その人は常に才能があると言われるような人だったのかというと、そうでもない。そこに至るまでには、類まれなる努力をしていることがほとんどだ。しかも闇雲に努力するのではなく、自分が正しく成長できる環境を発見し、自分に合った適切な努力の方法を検討し、継続して取り組み続けているのだ。
仮に同じ努力量で同じ能力値の人がぶつかったとしても、チャンピオンが一人の競技があった場合、どちらかは才能を認められない可能性があるので、そう考えると「運」も大切な要素になるのだろう。
このようにして結果を残した人を見たとき、多くの人は、自身の記憶を改ざんして、その人の過去の行動に対するイメージを才能ある人に寄せようとする。これは脳が一貫した情報を求めるからで、仮に失敗していれば、努力しているけど失敗する人のレッテルを貼ろうとするだろう。
このようにして人の才能の認知は促進されていく。つまり結果を残すことが才能ある人と認知されるために必要な絶対要素になるわけで、この要素の獲得のために適切な環境下で、適切な努力法を知って、努力し続けられる人が、才能ある人への切符を掴んでいるのだ。
■思考停止するな!
才能ある人は絶対に思考停止せずに能動的に行動している。能動的に行動するとは、他者の指示を待つのではなく、常に自分の行動に疑問を持って改善に取り組みながら継続することを指す。
そのために、認知→情動→欲求のプロセスで人が動機付けされることを理解している必要があるだろう。
まずは、正しく自分の力量と目の前の課題を認知すること。そして、それに対して情熱を注ぐこと、注ぎ続けるモチベーションを保つことが大切になる。
これと真逆でうまくいかない代表例が「やればできる」である。この「やればできる」は結果主義で物事を考える代表例である。
結果が才能を作るのであれば考え方としては間違いないのでは、と考える人もいるかもしれない。しかし、これには大きな落とし穴がある。それは、結果が出ないことによってモチベーションを著しく低下させてしまうことだ。
当たり前だが、初めていきなり結果を残す人なんて、ほんの一握り存在するかどうかだ。そんなことも考えずに、やればできると挑戦して、結果が出ないからと努力をやめてしまうのは非常にもったいない。
才能ある人は常に思考する。そして、自分の取り組みのどこが悪かったのかを考えて、改善する。つまり適切に認知して行動に落とし込んでいくのだ。この「どのように取り組むか」を考える人は強い。逆に結果だけを見て、諦めてしまう人は弱い。自分が簡単にできてしまうことを永遠に取り組むことになるので、成長も薄くなってしまう。
■最初は完コピから始めよう
それでは最初の一歩をどのように踏み出せばよいのか?
楽器に挑戦したことがある人なら当然かもしれないが、最初はできる人の動きを完コピする方が楽だ。なぜなら、そこに正解があるからに他ならない。
可能なら動画にして言葉よりも行動を見るよい。なぜなら言葉は人によって解釈が異なるからだ。不確かな言葉で確認するよりは、実際に目で見て行動に取り組める動画の方が楽になる。
ただし、言葉に落とし込んで自分で納得できるようにしたほうがよいだろう。言語化できないということは、それを自分が納得して体得していないということになるからだ。可能な限り抽象化して、それを他人に説明できるレベルになれば、間違いなく、それを体得していると言えるだろう。
このように技術を人からマネしたときに、自分がどうアレンジしていくのかというアイデンティティの検討に入る。それに加えて、マネした段階で自分の癖などが、多少は残るはずで、そこが自分らしさにつながるだろう。
■人によって見える景色は異なる
文化が異なるとモノの見方が異なる。クールジャパンの取り組みが自分たちにとっては意味不明のものでも、外国籍の人からすると驚くようなもので溢れているかもしれない(僕はクールジャパンが好きです)。このように、自分にとって取るに足りない能力でも他人からすると素晴らしい才能かもしれない。これは自分に限らず、周囲の人にも同様のことがいえる。
自分の持ち合わせているものを正しく理解しよう。そして、自分が目指すべき場所や方向性を定めて、その中で努力する自分をメタ認知しよう。メタ認知は、自分自身で行動からフィードバックの流れを実現する。つまり、成長機会を人より多くつくり出すことができる。
だから言い訳のフレームを外して、自分事として目の前の課題を捉えよう。
常にどうやったら解決できるのかを考えることを決して忘れないようにしよう。才能ある人は常に自分の取り組み方に疑問を持っている。
これは、仮説検証力と物事を抽象化して考える力、それを高速で実現する試行錯誤の回数が大切ということに他ならない。この考えを地で理解した人が、才能ある人と呼ばれるチャンスを手にするのだ。
ノートは知的生産力を高める画期的なツールだ(頭のよさはノートで決まるを読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
学校教育で欠かせないツールのひとつにノートがある。先生が板書する内容をメモするために、学生が持ち歩いている。ノートの取り方は基本的に誰も変わらない。強いて言うなら色ペンの使い方に工夫があるくらいで、書く内容は皆一緒。しかも、とにかくキレイに書かなければならないという暗黙知が存在する。しかし、このノートの使い方には問題がある。それは、ノートが内容を記憶するための物でしかないということだ。もちろんキレイに書いたところで用途が変わるわけでもない。
ノートにはそれ以上の使い方が存在する。本書では、ノートを使って知的生産力を高める方法が記載されている。
■クリエイティブな領域でノートを使う
ノートを使う場面は学校の授業のように何かを受動的に学ぶシーンが多いだろう。しかし、他にも様々な場面でノートを使うことは可能である。
例えば映画を鑑賞する場合、自分がとても感動するシーンを目撃したときに、そのシーンと自分が感じたことをメモしてみる。すると、それを記憶するという自分の負担が減るので、メモしたシーンに関して考えるだけの脳のリソースができる。そこでそのシーンを客観的に捉える余裕ができるわけなので、クリエイター目線で、なぜこのシーンにこのような演出をしたのか、なぜ鑑賞者はこのような感情になるのかを冷静に考えることができる。
こうやって物事を主観と客観でわけて抽象的に考えることは、今までの学校教育におけるノートの使い方から発展したノートの使い方である。なぜなら、今までのように単に覚えることをメモしただけでなく、クリエイター目線での演出の意味合いを考えるという発想に応用されたからだ。このように物事を抽象化して考えることは、思考レベルを大きく飛躍させることができる。
■作り手や教え手の目線でメモすれば、一段高い成長を手にできる
先ほど映画の場面でクリエイティブにノートを利用する方法で挙げた例と近しい内容になるが、セミナー受講時のノートの使い方にも応用編がある。それは教え手の目線でノートを書くことである。
セミナーで何かを受講しているということは、何かを学ぼうとしているのだろう。その状態で、わざわざ先生の立場から見たセミナーの内容をメモする必要がなぜあるのだろうか?
その答えは単純で、教えることによる学びは、教えられることによる学びよりも上位に存在するからだ。
つまり、そのセミナーで学びたいことを学んだうえで、そのときにメモした先生の講義内容やその手順、受け手から見た教える際のポイントなどをメモして整理し、それを誰かに実践することで、私たちも教え手の知識を得ることが可能になるのである。
学力が高い学生に「なぜ勉強ができるのか」を問うと、多くの学生が「頭の中で誰かに説明するように学ぶから」と答えるという。このように学習すると、話を聞いているだけだと素通りしてしまう難しい箇所や暗黙知てきな知識にも引っ掛かりができて、学習することが可能になる。
かなり実践しやすい内容なので試してみる価値はあるだろう。
■能動的なメモによって得られること
これまでに紹介してきたメモ術によって得られることは大きく二つある。
①能動的にメモする姿勢
これまで学校教育におけるメモ術は、単に板書するだけのことに過ぎなかった。記憶のためのツールでしかなく、それなら電子媒体を使った方がよっぽど良い効果を発揮する。
本書で提唱されているノート術は、記憶するためにノートを使うのではなく、人にしかできない知的生産をするためにノートを使う。そのため、内容を瞬時に理解して、主観と客観の情報の切り分けを行ったり、疑問や質問をその場で考えながらメモする必要がある。つまり、これまで以上に能動的に頭とノートを使っていく必要があるのだ。
②思考スピードの上昇
このようにして能動的にノートを使った結果、自然と能動的に思考するようになれるし、情報の取捨選択レベルが向上する。単に言われていることを理解する脳から、それを受けて発想する脳への進化し、常にそれを提供できるスピード感が身につくのだ。
このようにノートは自分の知的生産力を高めることができる素晴らしいツールである。本書を読んで、より高いレベルで思考する術を知ることができた。
読書家が最初に身につける技術がまとめられている(東大読書を読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
このブログを読んでいただいている貴方は、おそらく「東大読書」という一冊の本に興味があるのか、もしくは「読書における学びの効率化」に興味があるのだろう。ちなみに僕は後者だった。本を読んでも何も得ることができないのであれば、あまり意味がないと考えるからだ。僕は常々これのアップデートを考えている。
本書が設定している目的も僕の考える目的と合致している。それは『本を能動的に読むことで、地頭力と読み込む力を身につけること』である。決して分かったふりをするのではなく、しっかり理解して、自分から本と向き合うことを求めている。
■貴方はその本から何を学ぶのか?
本を読む際には、自分がその本から何を学ぶのか設定する必要がある。カクテルパーティー理論をご存知だろうか? きっとその理屈は皆さんご存知のはずで、自分が興味のあるものや自分に関する話だけ、喧噪の中でも浮遊して聞こえるという有名な理論だ。僕たちが本の目的を設定すべき理由はこれだ。自分が設定した目的に関する文章への感度を高くして、自分の学びを効率化するためなのだ。
じゃあ、どうやって本から学ぶことを決めるのか。
そこで役に立つのが、本のタイトルや装丁、目次の内容だ。そこには本のエッセンスが溢れている。それらから、その本で学ぶことができる内容を想像して、自分がどのようなことを得たいのか仮説を立てるのだ。もちろん仮説が間違っているとわかったら、その都度修正すればよい。
仮に過去に読んだことのある本を再読する場合は、過去に読んだ時とは違う目的を設定して読むとよい。そうすることで、これまでとは違う学びが、その本から得られるかもしれない。
そうやって目的を設定したうえで、論旨と例示を整理し区分けしながら読み込んでいく。これを実践すると要約力が身につく。それに、こうやって読むことで自分が学ぶべきポイントが書かれているかどうかを判別しながら読めるので、(自分にとっては)無駄なページをカットして読み進めることができる。
■記者になり、本と対話せよ
貴方はどのように本を読んでいるだろうか?
もちろん文字を目で追っているとは思うのだが、ここで質問している意図は、貴方が読書するときのスタンスである。
冒頭にも記載されているとおり、本書ではとにかく能動的に読むことを求めている。だから、ただ文字を追うことは許されない。そこで提案されるのが、記者読みだ。メモを取りながら読み、疑問や質問を考えることを求める。
疑問と質問。この二つは似ているようで大きく異なる。質問は著者の問いに沿った問いを立てることである。なので、その本の中で答えが見つかることが多い。文章は、著者の立てた問いから、その答えへ遷移していくことが多いからである。疑問は、自ら問いを立てることである。その答えも、自分で考え出すことになるだろう。ここで完璧な答えを出そうとしてプレッシャーを感じる必要はない。ここでは考えるプロセスと答えを出すアウトプットが学びになるからだ。
それでもプレッシャーを感じる人は、本書で提案されている検証読みを試してみるとよい。
検証読み自体は、上記のような事例と関係なく試している人も多いと思う。具体的には類似の本を二冊以上並行で読むことを指す。そこで共通点や相違点を探し出すことができれば、著者によっての思考性の違いや、業界普遍的なことの理解が可能になる。こうやって多面的に思考する癖ができていくのだ。
これらの内容は全て姿勢の問題だ。本書ではこれを実践的にするために付箋を使うテクニックも紹介されている。僕はTrelloというツールで似たようなことをやっているので紹介していないが、興味のある人は本書を通して実践してみてほしい。
愛を呼ぶ超能力が物語を作る(フーガはユーガを読んだ感想・書評)
※ネタバレ注意
やっぱり伊坂幸太郎の小説はおもしろい! と、そう思わせてくれる小説だった。
どこか頼りないけれど物語を動かす主人公、日常に潜む眉を顰めたくなるような残酷なシーン、驚きを生無展開とそれを支える何気ないワンショット。どれもが伊坂幸太郎の代名詞でありながら、過去の作品と全く同じような展開になっていないことも素晴らしいと思った。
個人的に良かったポイントを三つにまとめているので、それぞれ紹介したいと思う。
■愛を呼ぶ超能力
「愛を呼ぶ超能力」と書くと、相手から行為をもたれるような能力を指しているように思われるかもしれない。しかし、ここでは超能力自体ではなく、その設計が読者から好かれやすいということを言いたい。
本書では双子が誕生日のある時間だけ、自分たちの居場所を瞬間的に交換してしまうという超能力がキーになっている。普通、瞬間移動の超能力は、誰もが憧れる能力というのもあって、かっこよく描かれることが多い。しかし、本書に限って言えば、一年に一回の誕生日でだけ、しかも二時間おきに発生するという不便な制約がついている。
そのせいで双子は、誕生日になると完全に同じ服を着て、入れ替わりが発生しても戸惑わない場所に移動して……という具合で瞬間移動に慎重に備えている。
この一見すると便利なのか不便なのか分からない設計だからこそ、物語の中で使いどころを考えさせられるし、展開が熱くなるのだ。これが、いついかなる時でも瞬間移動できる主人公の物語であれば、相手はそれを越える能力を備える必要がある。つまり能力のインフレが発生するのだ。これでは読者も期待できない。なぜなら、次々と最強の能力が登場してくるので、なんでも有りになってしまうのだ(逆にそれをネタにして読者を楽しませている漫画もある)。
今回は、あえて不便な瞬間移動にすることで、読者が入り込む余白を用意して、一緒に物語の展開を見守る状態を作ることに成功していると言えるだろう。
■精緻に練られたストーリーから嘘を読み取ることは難しい
人は信頼することから始める。つまり相手を信頼できない場合は、よっぽど信頼できない要素が揃っているということだ。そう聞くと「自分は滅多に騙されない」と言う人が出てくるのだが、果たしてそうだと言い切れるだろうか?
人は一貫性のある情報であれば大抵は受け入れる。しかも分かりにくい質問や疑問が出てくると解決しやすい情報に置き換えて回答しようとする性質がある。これは脳科学的に検証されている事実だ。そのためストーリーは受け入れやすい。なぜならストーリーは基本的に一貫性を備えた設計がされているし、どのような話を作ろうと聴き手には嘘と本当の境目がわからない。
しかし、本書では主人公の敵が、主人公のストーリーによって陥れられそうになっていることに気づく。それに対して主人公は「どこでバレた?」と疑問に思う。
僕の予想では、敵も主人公の話を真剣に聞いていたし、信じていたはずだ。その潮目が変わったのは、主人公が、過去に出会った少女が事故を装って殺されたという話をしたからだと思う。普通に考えれば、その話は本筋に関係がない。しかも敵からすればデリケートな話題だ。そこに注意が向かないはずがない。つまり、主人公は「信じられない一点」を見つけられてしまったのだ。
このように気づくには相当注意深くなる必要がある。そして、これは相当疲れる。だから、人は基本的に注意を向けずに話を聞くし、一貫性があれば騙されてしまうのだ。これは良くも悪くも意識しなければならないポイントだなと思う。
■クライマックスの少し前に結末がわかると気持よい
伊坂幸太郎の小説を読んでいると爽快感が溢れてくる。わかりやすい適役の存在と、それに立ち向かう主人公の構図がわかりやすいし、そこに向かうまでの謎とカタルシスの蓄積が、うまく設計されているからだと思う。
この謎とカタルシスの開放タイミングが伊坂幸太郎は絶妙で、クライマックスの少し前に「お、まさか」と思わせてくれる雰囲気が出てくる。だから実際にそのような結末になると自分が全て考えたとおりにストーリーが進んだような爽快感が生まれる。この爽快感が読者を病みつきにさせるのだ。