0ベース思考を読んだ感想・書評
ぼくたちの考えは、いわゆる経済学的アプローチにヒントを得ている。といってもバリバリの経済をとりあげるわけじゃない――全然ない。
経済学的アプローチっていうのは、もっと幅広くシンプルな考え方だ。直感や主義主張は脇にどけて、データをもとに世の中のしくみを理解し、どんなインセンティブがうまく行くのか行かないのか、また(食料やら交通手段やらの)具体的な資源や、(教育やら愛情やらの)観念的な資源がどう配分されるのか、資源が手に入りにくい原因にはどんなものがあるかを明らかにしようとする方法をいう。
※インセンティブ=人を行動に駆り立てる動機や要因
要は社会通念を信じてばかりで、データを何も参照しなかったり、そういう結果が出ていても無視して痛い目を見ている人に対する警告のような本となっている。
最初に本書では「分からないことを分かる」と答えてしまう人たちについて言及している。例えば専門家が「未来の予測を立てれますか?」と問われたときにペラペラと自説を説いている人間だ。全ての人が外れているとは言わないけれど、ほとんどの意見がそのまま流されていくのを頻繁に見ているような気がする。当たったら取り上げられるのに、外しても対して責められないことが多いのはなぜなのだろうか? そもそもなぜ「分かる」と断言するのか、僕には以前から理解できなかった。もちろんある程度社会で生きているとあれが生きていくための術であることはわかっていた。それが複数あるインセンティブの一つなのだろうと。本書ではこのような嘘を簡単についてしまう人についてこう記されている。
テトロックは、予測がとくに外れがちな人はどういう人かを聞かれると、ズバリひと言で答えた。「独断的」、つまり何かが本当かどうかを知らないのに、何が何でも本当だと思い込むような人だ。
僕もちょっとした見栄で「できる」とか「わかる」と答えてしまうときがある。「ハッタリ」としてそういうのが必要になる場面もあるのだろうが、毎回毎回そうやって嘘をついて信頼をなくしてしまったらハッタリも使うことができなくなってしまうだろう。本書ではこのような見栄についてこう締めくくっている。
しかし、ものごとがあたりまえと思われるようになるのは「あと」になってから、つまり誰かが時間と労力をかけてそれを調べ、その正しさ(や誤り)を証明してからだ。知らないはずの答えを知っているかのようにふるまうのをやめなければ、調べたいという強い思いもわいてこない。知ったかぶりをしたいというインセンティブはとても強いから、それに打ち勝つには勇気をふりしぼる必要がある。
確かにそのとおりだ。まるで事実のように未来を語るのはやめなければいけないなと思った。しかしこれは、「未来を語ってはいけない」ということではなく「断定と推測を使い分ける」というレベルで修正できることだと僕は考えている。もちろん本質的には誤魔化しをやめようという著者のメッセージが込められていると思ったので、そこはもちろん意識したい。
上述したようなちょっとした見栄で分からないことを分かると答えてしまうような人間の心理には「群集心理」が働いていることが多そうだ。自尊心を満たして、社会的立場を守るためにちょっとした嘘をつく。こういうのって積み重なると本当に痛い目を見ることが多い。最近再読したノルウェイの森では、嘘を巧みに操る少女が出てきた。彼女がどうなっていくのかという描写はないが、自分の中でいずれ大きな葛藤が生まれて生き辛さを覚えるのではないかと思う。仕事でもそういう小さな誤魔化しが後々の大きなミスに繋がることがあるかもしれない(そもそも本人が小さな誤魔化しと考えていても周囲の人はそう思っていないかもしれない)。
これまで自分主観でインセンティブについて記述した箇所が多かったが、これは相手が何を思っているのかを捉えるのにも役立つかもしれない。相手の考えは事実や論理よりもイデオロギーや群集心理に左右されることが多い。身をもって実感なさっている方も多いのかもしれない。だから何らかの課題がある際には、相手のインセンティブを考えながら解決のための自問自答をすることが先決で、その後自分が取る行動(ビジネスだと営業や広報だろうか)に具体的に置き換えていくことが大事だ。本書にはそれを考える際の簡単な六つのルールが挙げられている。
1.相手が関心があると言っていることを鵜呑みにせず、本当に関心を持っていることをつきとめよう。
2.相手にとっては価値があるけれど、自分には安く提供できるような面で、インセンティブを提供しよう。
3.相手の反応に注意を払おう。びっくりしたり、がっかりしたような反応が返ってきたら、それを参考にして別のことを試してみよう。
4.相手との関係を、敵対的枠組みから協調的枠組みにシフトさせるようなインセンティブをできるかぎり考えよう。
5.何かが「正しい」から相手がそれをしてくれるだなんて、ゆめゆめ思っちゃいけない。
6.どんなことをしてでもシステムを悪用しようとする人が、必ず現れる。考えもしなかった方法で出し抜かれることもある。そんなときはカッとして相手の強欲を呪ったりせず、、創意工夫に拍手を送ろう。
これらを満たす問いを考えて誰にも思いつかないような方法で問題を解決していった先人のお話が本書ではいくつか挙げられていた。その人達はインセンティブをうまく活用して問題を解決するのだ。要はシンプルに考えることが大切ということなのだが、この言葉はあまりにも巷に溢れているし、それを別の切り口でこれだけ考える事ができたのは面白かった。(特にヴァン・ヘイレンのツアーの裏に隠された秘密の話は最高だった)
○読後のおすすめ
すでに読了している方に向けて書いた記事だ。
入社1年目の教科書(岩瀬大輔)を読んだ感想・書評
ノルウェイの森(村上春樹)を読んだ感想・書評
「あのね、何も女の子と寝るのがよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたいのは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないってことよ。わかる? そういうのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」
『不自然なかたちで自分を擦り減らす』という意味合いの言葉が非常に刺さる。このときのワタナベは、特に大した言葉も言わずに肯くだけでしかない。しかし時間が経ってこの意味合いを考えさせられる描写は次々と訪れる。その一つが無意識の直子が夜眠るワタナベのもとを訪れて突然裸になる描写だ。そのときワタナベは、直子にたいして、彼女は完璧な肉体を手に入れたという考えを持った。それは、不自然なかたちで自分を擦り減らしてきた直子が、自分の大切なものを取り戻したことをワタナベに見せつけているようだったことに由来する。心と体はなぜか分離して考えられることが多い。しかし、それらは一体なのだ。どちらかがほころびを見せれば、なし崩し的に崩壊する可能性だってあるのだ。ワタナベはそのことに気付いた。新宿という街を歩いているときに、周囲の人間と自分との間にあるギャップのようなものを身をもって感じた。俯瞰的にそのようなものを見てしまうことは、その人にとって本当に苦しい痛みをもたらすときがある。当たり前なんだけども彼らは自分とは違う時間軸の中で生きているということを忘れてしまって、意味もわからないイライラが募ってしまう。それは崩壊の一手だ。
結果的に直子は自殺という行為を選ぶ。そこにワタナベの行動がどのような影響を与えているのかは不明だ。彼が直子にどのような影響を与えていたのかすらイマイチ分からない。本書は過去の回想という表現技法を使っていて、物語は直子の自殺から随分と時間が経った時点から始まっている。そこに描かれていることですら殆どは、直子がおそらくこう思っていたのだろうという推測に過ぎない。死人に口なしと言うが結局は、自分で考えて考えて必死になってそれを乗り越える・落ち着くように考え直すしかないだろうと思った。ただしその考えに対して、直子の死後すぐのワタナベはこう語っている。
「死は生の対極にあるのではなく、我々のうちに潜んでいるのだ」
たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育んでいるのだ。しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えたのはこういうことだった。どのような真理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを癒やすことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、どのような優しさも、その哀しみを癒すことは できないのだ。我々はその哀しみを哀しみ抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考えていた。ウィスキーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だらけにしながら初秋の海岸をリュックを背負って西へ西へと歩いた。
じゃあ一体全体どうすればいいのだろうか、と思った。僕はこれに対する答えを知らない。だから必死に生きて必死に考え抜いてやろうと思う。たぶん自分の身近な人間が死んだときにその力はあまり役に立たない。それはワタナベが言うとおりなのだろう。でも、僕の身近な人間がそのような苦しみを抱えているときに、その力は役に立つと思うのだ。だから僕は精一杯考える。
○読後のおすすめ
思考の整理学(外山滋比古)を読んだ感想・書評
知的活動には三つの種類が考えられる。①既知のことを再認する。以下、これをAとする。②未知のことを理解する。これをBとする。③まったく新しい世界に挑戦する。これをCとする。……中略……物語、小説などは、一見して、読者に親しみやすい姿をしている。いかにもA読みでわかるような気がする。あまり難解であるという感じも与えない。それでは創作がA読みだけですべてがわかるか、というとそうではない。作者の考えているのは、読者の知らないものであることがうすうす察知される。このとき、読者は既知に助けられ、想像力によって、既知の延長線上に新しい世界をおぼろげにとらえる。こういうわけで、同じ表現が、Aで読まれるとともに、Bでも読まれることが可能になる。創作が独特のふくみを感じさせるのは、この二重読みと無関係ではあるまい。
われわれには二つの相反する能力が備わっている。ひとつは、与えられた情報などを改変しよう、それから脱出しようという拡散的作用であり、もうひとつは、バラバラになっているものを関係づけ、まとまりに整理しようとする収斂的作用である。
……中略……
思考に関して、この二つの作用を区別してかかるのは重要である。これまでは主として収斂的思考のことを考えていたから、思考の整理も比較的に簡単であったように思われる。しかし、収斂的思考は思考の半分にすぎない。しかも受動的半分である。創造的半分は拡散的思考、つまり、誤解をおそれず、タンジェントの方向に脱出しようとするエネルギーによって生み出されれる思考である。これまでこれが充分認識されないできたのが、われわれの社会の不幸であった。本当の独創、創造ということが、”変人”でないとできにくいというのは悲しい。
本を読むにしても、これまでは”正解”をひとつきめて、それに到達するのを目標とした。その場合、作者、筆者の意図というのを絶対とすることで、容易に正解をつくり上げられる。それに向かって行われるのが収斂的読書である。
それに比して、自分の解釈を創り出して行くのが、拡散的読書である。当然、筆者の意図とも衝突するであろうが、そんなことにはひるまない。収斂派からは、誤読、誤解だと避難される。しかし、読みにおいて拡散的作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはなるまい。古典は拡散的読みによって形成されるからである。筆者の意図がそのままそっくり認められて古典になった作品、文章はひとつも存在しないことはすでにのべたとおりである。
本ブログの目的は、「拡散的思考」に寄っている。もちろんそのためには自分が定着させたいと思う知識を一度収斂的読書でまとめる必要があると思うので、そのような文章も記述しないわけではない。しかし、それだけでは自分の血肉とならないことは本書でも述べられているとおりで、僕はそのことを忘れないように記事の更新を続けていきたいと思う。
○読後のおすすめ
罪の声(塩田武士)を読んだ感想・書評
日本語の作文技術(本多勝一)を読んだ感想・書評
紋切型を平気で使う神経になってしまうと、そのことによる事実の誤りにも気付かなくなる。たとえば「……とAさんは唇を噛んだ」と書くとき、Aさんは本当にクチビルを歯でギュッとやっていただろうか。私の取材経験では、真にくやしさをこらえ、あるいは怒りに燃えている人の表情は、決してそんなものではない。なるほど実際にクチビルを噛む人も稀にはあるだろう。しかしたいていは、黙って、しずかに、自分の感情をあらわしようもなく耐えている。耐え方の具体的あらわれは、それこそ千差万別だろう。となれば、Aさんの場合はどうなのかを、そのまま事実として描くほかはないのだ。「吐きだすように言った」とか「顔をそむけた」「ガックリ肩を落とした」なども、この意味で事実として怪しい決まり文句だろう。
おっしゃる通りだと思った。本当に大事な表現であるならば、そこには時間をかけて自分が見たもの(=真実)を描くことが大切だ。人間は瞬時に様々なことを考える。自分が「とても興味を惹かれている」と自覚するものに対して、僕たちはその一瞬で、自分が気付かないほどの感情をインプットしているのだ。しかし、僕たちはそれらをぽいっとどこかに投げ捨てて、一般的に広がっている紋切り型の言葉で表現してしまう。文章は時間をかけて一文を生み出すことができる。文章を使えばこのような紋切り型の表現を撤廃することができるのかもしれない。僕はそんな文章が好きだ。一方で、そこまで読み手の意識を引く必要がない文章では、このような紋切り型の表現が効果的かもしれないとも思った。要はどうやって読み手に伝えるのか、書き手が意識することが大切なのだろう。(僕はこれを機に昔の文章を読み返しましたがひどい文章ばかりでした)
○読後のおすすめ
上述した書籍の感想文だ。
クライマーズ・ハイ(横山秀夫)を読んだ感想・書評
横山秀夫の小説を読むといつも実感させられる事がある。 それは文章の上手さである。僕に本書を紹介してくれた先輩は、それを記者出身であるからと言っていた。僕もそれは思う。が、記者として培った事実を端的に表現する力と、その中で揺れる人の心情をしっかりと表現しようとする文章に良さがあるのだと僕は思っている。記者だったから文章が上手いというわけではない。小説家として横山秀夫が人と向き合った経験が文章に表れているのだ。
第三の時効(横山秀夫)の書評 - 本を読むこと-読書から何かを学ぶためのブログ-
文章が下手で申し訳ないのだが、ここで感じていたことや述べたかったことを、もう少し具体的な形で小説に落とし込まれているのが本書なのだと僕は思った。つまり、横山秀夫の記者としての経験やその時の葛藤が本書には度々出てきていて、それが読み手の心をこの上ないほど揺さぶっているのだと考えたのだ。
本書の軸に据えられている事件や事故はどれも実際に起こっているものである。僕自身は、正直なところそれに詳しくはなかったので「なんか聞いたことあるような事故だな。本当にあったものをモチーフにしてるのか?」ぐらいにしか思っていなかった。しかし、途中からそんなことは、全く気にならなくなるぐらい描写がリアルで、僕は主人公・悠木の心情に引き込まれた。体験したこともない記者としての葛藤に僕が引き込まれたのは、横山秀夫自身がそれを体験し、どう物語として伝えればいいのかを試行錯誤した結果なのだろうと思った。
物語の最初では、記者として事故や命にどう向き合っていくのかが悠木や神沢に問われている。現場にいる記者といない記者。現場に行った神沢は、刺激的な描写でありのままの事実を記述した。それを否定し新聞としての文章のあり方を説いた悠木。どちらの姿勢も間違っていないのだ。そして、悠木は神沢に寄り添うことで問題を解決する。悲惨な事故現場を目の当たりにすることで大きなダメージが目撃者に降り掛かっていることを、本人も気がついていないことがあるのだ。しかし、本当の痛みは被害者や現場に触れることでしか知ることはできない。テレビでも現場を見ることなくそれについて論じている人がいるが、あまり説得力はないように映る。そう考えると神沢の行動は、彼が目指す記者の姿をカタチにする上で欠かせないものだったのだろう。
神沢と悠木の間で事故の描写について葛藤が起きていたのが前半なら、後半では望月によって命の重さをマスコミが決定しているという問題提起がなされる。確かにその通りで、大きな事故のようにマスコミに取り上げられやすいものほど世間の注目が増す。亮太のように統計にも残らない死を遂げた人間はどうなる? という望月のセリフは胸に刺さった。だが、マスコミが全ての「人の死」を等価に扱えば済む問題ではないのだろう。マスコミの役割は、それではないからだ。横山秀夫はこの問いかけにずっと耳を傾け続けていたのかもしれない。小説では、小さな命にスポットを当てることが多いだろう。今後どのようにそれらが描かれていくのか今から楽しみだ。
最後に、それぞれ何らかの嘘を隠しながら付き合っていた悠木と燐太郎の二人。二人が抱き続けていた過去の感情を吐露することで物語が締めくくられている。この描写を通じて二人が家族になる可能性も見せているが、これはすごく良かった。安西の死で更に近づいた二人の距離を本物にし、家族に対して距離の詰め方がわからなかった悠木の悩みがすっと消えいくのを感じた。十七年前だけでは話が成立しなかった理由が何となく分かったような気がした。それぞれが前を向いて生き続けた結果がこの物語には必要だったのだ。
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